此の建內宿禰之子、并せて九、男七、女二
波多八代宿禰者(は:短語)、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也
次、許勢小柄宿禰者(は:短語)、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也
次、蘇賀石河宿禰者(は:短語)、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、
岸田臣等之祖也
次、平群都久宿禰者(は:短語)、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也
次、木角宿禰者(は:短語)、木臣、都奴臣、坂本臣之祖
次、久米能摩伊刀比賣、次、怒能伊呂比賣、次、葛城長江曾都毘古者(は:短語)、
玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也
又若子宿禰、江野財臣之祖
此の天皇御年、伍拾漆歲(57歳)、御陵劒池之中岡上に在る也
建內宿禰
高藏神社
武内神社
迩幣姫神社 境内 武内神社、有礒正八幡宮、吉倉八幡宮、白川八幡社、藤森神社、
稚櫻神社 境内 高麗神社、厳原八幡宮神社、織幡神社、美奈宜神社、盈岡神社、
香椎宮 境外 高陪神社、香椎宮 境内 武内神社、久佐奈岐神社 境内 白髭社
前橋八幡宮、若宮八幡神社、矢田八幡神社 境内 高良神社、加茂神社、志登神社、
細江神社 境内 八柱神社(弥五郎殿祭神合祀)、住吉神社 境内 志賀神社、
池田神社、墨坂神社 境内 高良社、宇閇神社、津島神社 境内 弥五郎殿社、津野神社
藤崎八旛宮 境内 武内神社
白沙八幡神社、櫛田神社、二葉山神社(宇佐市下敷田)
神明社(大仙市協和稲澤上野)、誕生八幡神社
磯崎神社(大分市馬場)、黒田八幡神社(真庭市)
古事記では「建内宿禰」、日本書紀では「武內宿禰」と記載されています。
古事記では、前回の場面の「又娶木國造之祖宇豆比古之妹 山下影日賣 生子 建內宿禰」
と今回の場面の「此建內宿禰之子」、
他に「若帶日子天皇」の場面の「故建內宿禰爲大臣 定賜大國小國之國造」があります。
日本書紀では「孝元天皇」の場面で「彥太忍信命 是武內宿禰之祖父也」とあるのと、
「景行天皇」の場面で「則娶紀直遠祖菟道彥之女影媛、生武內宿禰」を筆頭に、
7箇所存在し、「仲哀天皇」の場面で3箇所存在し、「神功皇后」の場面で14箇所が存在し、
「応神天皇」、「仁徳天皇」の場面の「武內宿禰答歌曰」を境に現れなくなります。
とはいえ、これらが一人の人物と考えるのは無理があります。
なので、当然、これらは
「建內宿禰」、「武內宿禰」双方が継承されてきた証拠だと思います。
ちなみに、日本書紀では「允恭天皇」の場面で「卽逃隱武內宿禰之墓域」とあり、
「武內宿禰」の墓の場所も書いてあれば良かったですが、
残念ながら記載されていませんでした。
あと、「先代旧事本紀」では「建內足尼」と書いている様ですが、
これは、「宿禰」の前ではないか?と考えています。
まとめとして、「孝元天皇」の時点で、「彥太忍信命」が「武內宿禰」の祖父とあり、
「彥太忍信命」が「孝元天皇」の時代ならば、
二つの時代を飛ばすと「崇神天皇」になります。
しかし、これでも、「景行天皇」の場面の「則娶紀直遠祖菟道彥之女影媛 生武內宿禰」
になるためには、あと2つの時代を飛ばさないと行けません。
これにより、「武內宿禰」という人名は、「孝元天皇」の時代には、すでに存在していて、
「景行天皇」の時代の「武內宿禰」は、先代から継承したのだと思われます。
しかし、そうなると、古事記の「建內宿禰」はどうなるのか?ですが、
もしかすると、「建內宿禰」の子が「武內宿禰」の可能性もあるように思います。
漢字の表記を変えるのは、良くある事なので、十分に可能性はあると考えています。
それに、「波多八代宿禰」などの子について、「古事記」では言及していますが、
「日本書紀」では、言及していません。
これは、親である「建內宿禰」の子だから、
「武內宿禰」の子としては扱えないからではないか?とも思っています。
「多気 坂本神社」で「多気神社」の祭神を「武内宿禰(阿支奈臣の祖)」とし、
「坂本神社」の祭神を「葛城襲津彦命(布師臣・坂本臣の祖、武内宿禰の子)」
と書いています。
Wikiを見ても、武内宿禰の子が葛城襲津彦命と書いています。
しかし、日本書紀の「神功皇后」の場面で、
「副葛城襲津彥而遣之」が初めての登場となっています。
「五年春三月癸卯朔己酉」の記事となっていますが、この場面において、
「葛城襲津彥」が「武内宿禰」の子であるという証拠はありません。
また、「應神天皇」の「十四年春二月」にも「爰遣葛城襲津彥而召弓月之人夫於加羅」
という記事がありますが、
ここでも「葛城襲津彥」が「武内宿禰」の子であるという証拠は、
見つかっていません。
「允恭天皇」の場面でも登場し、「命葛城襲津彥之孫玉田宿禰」とはありますが、
ここでも血の繋がりがあるという証拠はありません。
多分に「先代旧事本紀」などでその様に書いているだけで、
「日本書紀」にある、「葛城襲津彥」が「武内宿禰」の子であるという話は、
嘘であると言えそうです。
ちなみに、古事記では「葛城長江曾都毘古」が「建內宿禰之子」と書いているので、
この記事を「日本書紀」の記事だと思い込んだのかも知れません。
それから、「阿支奈臣」の情報はありませんでした。
与志漏神社、八幡神社(木之本町飯浦)、波彌神社
波多神社、矢代寸神社
72 左京 皇別 道守朝臣 朝臣 波多朝臣同祖 波多矢代宿祢之後也
263 河内国 皇別 道守朝臣 朝臣 波多朝臣同祖 武内宿祢男八多八代宿祢之後也
266 河内国 皇別 道守臣 臣 道守朝臣同祖 武内宿祢男波多八代宿祢之後也
303 和泉国 皇別 道守朝臣 朝臣 波多朝臣同祖 八多八代宿祢之後也
「八多朝臣」には「武内宿祢命之後也」と記載されていますが、
72の「波多朝臣同祖」の様に「波多」ではありません。
72の「道守朝臣」に「波多朝臣同祖」があるのだから、存在したのは確かでしょう。
もしかしたら、「波多朝臣」も存在していたが、どこかの段階で削除されたのでしょうか。
もし、どこかで削除したのだとすると、なぜ、削除したのか気になります。
72の道守朝臣ですが、原本で確認すると、「波多矢代宿祢」の場所が、
「波多矢氏宿祢」に見えます。
303の道守朝臣の様に、「八多八代」とはっきり書いてくれれば良かったですが、
全く「代」には見えません。
この「新撰姓氏録」の系譜から、見えてくるのもあります。
「武内宿祢男八多八代宿祢」と「武内宿祢男波多八代宿祢」とでは、
「八多」と「波多」で異なります。
つまり、「武内宿祢男波多八代宿祢」が先に存在していて、
「武内宿祢男八多八代宿祢」が後に登場したのが分かります。
ただ、「波多矢代宿祢」と「八多八代宿祢」がいつの時代の人間なのかは、
これだけでは判断できません。
124 右京 皇別 平群朝臣 朝臣 石川朝臣同氏
武内宿祢男平群都久宿祢之後也
125 右京 皇別 平群文室朝臣 朝臣 同都久宿祢之後也
126 右京 皇別 都保朝臣 朝臣 平群朝臣同祖 都久足尼之後也
215 大和国 皇別 馬工連 連 平群朝臣同祖 平群木兎宿祢之後也
271 河内国 皇別 早良臣 臣 平群朝臣同祖
武内宿祢男平群都久宿祢之後也
273 河内国 皇別 額田首 首 早良臣同祖 平群木兎宿祢之後也
「武内宿祢男平群都久宿祢」と「平群朝臣」と「早良臣」で書いているので、
「武内宿祢」の時代でも「平群都久宿祢」が継承されているのだと思います。
問題は「平群木兎宿祢」、「都久足尼」、「都久宿祢」の存在です。
「都久足尼」、「都久宿祢」は後世の人物だと思っていて、
「平群木菟宿禰」は、日本書紀の「應神天皇」の場面で登場します。
仁徳天皇の場面で「取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰、是平群臣之始祖也」とありますが、
「木菟宿禰」が「平群臣之始祖」と解釈できますが、本当にそうなのでしょうか?
そもそも、「平群都久宿禰」=「平群木菟宿禰」というのは、
「木菟」を「つく」と読めない事から、おかしいと思います。
なので、「平群木菟宿禰」は「應神天皇」から登場する事を考えて、
その時代の人物とすると、「武内宿祢」の数世代後の子孫と考えられます。
参照36のサイトに、「木兎の次男(『紀氏家牒』によれば額田早良宿禰)は
母の氏である額田首を名乗ったとされる」とありますが、
「新撰姓氏録」には、「不尋父氏。負母氏額田首」としか書いていないので、
この人物が「次男」なのかは不明です。
上記の記事に、「額田早良宿禰の子・額田駒宿禰」とあるので、調べてみたら、
確かに「額田早良宿祢男、額田駒宿祢」とあるのですが、
この場では、「木兎」の子かは判断できません。
この後の、「額田早良宿祢。(成信考、木兎宿祢二男也。)」とありますが、
「成信」とは誰でしょうか?
「成信」とありますが、正しい情報か判断に困ります。
また、「紀氏家牒」に「平群真鳥大臣弟、額田早良宿祢」とありますが、
「寛政重脩諸家譜」には記載されていません。
なので、何が正しいのか分かりません。
参照36:平群木菟
275 河内国 皇別 紀部 建内宿祢男都野宿祢命之後也
というのが「新撰姓氏録」にあるだけで、重要な情報はありません。
ただ、「紀角宿禰」と混同しているサイトがありますが、
建內宿禰の子の中にはいません。
「紀角宿禰」は、日本書紀の「應神」と「仁徳」で登場しますが、
「武内宿禰」と関係があるような情報はありません。
68 左京 皇別 紀朝臣 朝臣 石川朝臣同祖 建内宿祢男紀角宿祢之後也
69 左京 皇別 角朝臣 朝臣 紀朝臣同祖 紀角宿祢之後也
70 左京 皇別 坂本朝臣 朝臣 紀朝臣同祖 紀角宿祢男白城宿祢之後也
135 右京 皇別 掃守田首 首 武内宿祢男紀都奴宿祢之後也
274 河内国 皇別 紀祝 建内宿祢男紀角宿祢之後也
304 和泉国 皇別 坂本朝臣 朝臣 紀朝臣同祖 建内宿祢男紀角宿祢之後也
男白城宿祢三世孫建日臣。因居賜姓坂本臣
307 和泉国 皇別 紀辛梶臣 臣 建内宿祢男紀角宿祢之後也
308 和泉国 皇別 大家臣 臣 建内宿祢男紀角宿祢之後也
謚天智庚午年。依居大家。負大宅臣姓
309 和泉国 皇別 掃守田首 首 武内宿祢男紀角宿祢之後也
「紀角宿禰」に関して、「新撰姓氏録」から情報を集めると上記の様になります。
「建内宿祢男紀角宿祢」と「武内宿祢男紀角宿祢」がありますが、
「建内宿祢男紀角宿祢」が4つに、「武内宿祢男紀角宿祢」が1つなのを考えると、
「建内宿祢男紀角宿祢」が初期、「武内宿祢男紀角宿祢」が後期になるかと思います。
「木角宿禰」と「紀角宿禰」の関係ですが、
「木角宿禰」の後に「紀角宿禰」が登場していると思うのですが、
「建内宿祢男都野宿祢命」は、中間なのか、それ以外なのかは不明です。
情報が無いかと調べていたら、参照37のサイトを見つけました。
このサイトの中頃に「紀角宿禰の六世孫である角臣来子宿禰が祀った」とあるので、
確認したら、「AI による概要」に
「武内宿禰の七人の子(一人)の一人として登場」とあり、
だいぶ、話が違っています。
他に「別名:古事記では「若子宿禰(わくごのすくね)」と表記されている。」
とありますが、これはAIが間違ったのだと思います。
あと、日本書紀には「武内宿禰」の子として書かれていないので、
「七人の子」とするのも間違っていると言えそうです。
やはり、まだ、AIの性能は、人間には敵わないようです。
そこで、本題の「角臣来子宿禰」ですが、日本書紀の「雄略天皇」の場面で、
「是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。是、角臣等初居角國而名角臣」とあり、
「角臣」が初登場しますが、この時点では「角臣来子宿禰」という人名ではありません。
結局、日本書紀において、「角臣来子宿禰」は登場しませんでした。
そのため、「紀角宿禰の六世孫である角臣来子宿禰」との情報の発信源を調べました。
どうやら、参照38のサイトによると、「神社明細書」にある
「角宿福六世ノ孫角臣來子宿禰勧請スル所ニシテ」という文が発端のようです。
ですが、「紀角宿禰」よは書いていないので、
「木角宿禰」か「紀角宿禰」の子孫が「角宿福」だと思います。
そもそも、「宿禰」ではなく、「宿福」と書いているあたり、
この時代には、「宿禰」という言葉には、意味がなかったのかも知れません。
これにより、「紀角宿禰の六世孫である角臣来子宿禰が祀った」
との情報も嘘だと判明しました。
また、「神社明細書」には
「傳曰武内大臣越國角鹿へ趣キ給フ時、今ノ西近江路ヲ通行アリテ
天神地祇ヲ祭ラルゝハ由アリシコトナラン。其後第五子角宿禰ヲ角氏ノ本居角國」
ともあり、「武内大臣」の「第五子角宿禰」と解釈できますが、
こちらも「角宿禰」なので、「角宿福」の前に「角宿禰」があったのだと思います。
参照37:津野神社(今津町北仰)
参照38:津野神社
134 右京 皇別 玉手朝臣 朝臣 同宿祢男葛木曽頭日古命之後也
195 山城国 皇別 的臣 臣 石川朝臣同祖 彦太忍信命三世孫
葛城襲津彦命之後也
214 大和国 皇別 阿祇奈君 君 玉手朝臣同祖 彦太忍信命孫武内宿祢之後也
238 摂津国 皇別 坂本臣 臣 紀朝臣同祖 彦太忍信命孫武内宿祢命之後也
239 摂津国 皇別 阿支奈臣 臣 玉手朝臣同祖 武内宿祢男葛城曽豆比古命之後也
240 摂津国 皇別 布敷首 首 玉手同祖 葛木襲津彦命之後也
267 河内国 皇別 的臣 臣 道守朝臣同祖 武内宿祢男葛木曽都比古命之後也
269 河内国 皇別 小家連 連 塩屋連同祖 武内宿祢男葛木襲津彦命之後也
305 和泉国 皇別 的臣 臣 坂本朝臣同祖 建内宿祢男葛城襲津彦命之後也
「彦太忍信命」の存在ですが、「比古布都押之信命」と同一人物とされています。
しかし、古事記では「自比至都以音」とあり、「比古布都」は音読みとなりますが、
呉音で「ひくふつ」、漢音で「ひこほと」になります。
なので、「彦太」=「ひこふと」というのは、おかしい事になります。
また、日本書紀では、
「大日本根子彥國牽天皇」と「伊香色謎命」の間に生まれたとなっています。
「彥太忍信命 是武內宿禰之祖父也」とは書いていますが、仮にこれが本当であるならば、
「開化天皇」の時が、「彥太忍信命」の時代なので、「崇神天皇」の後の「垂仁天皇」
の時に「武內宿禰」が誕生していなければなりませんが、
日本書紀では、「景行天皇」に誕生していますので、一代ずれています。
つまり、記載が無いですが、「崇神天皇」の時代にも、
「武內宿禰」が存在していたと思われます。
なぜ、この様な状況になったのか?ですが、多分にダブってしまうのは知っていたが、
どうしても「開化天皇」の場所で書かないと行けない様な状況だったのかも知れません。
参照39のサイトでは、「屋主忍男武雄心命は彦太忍信命の子にあたる。」
と書いていますが、時代を見れば、それが違うのは簡単に分かると思います。
「大和国 阿祇奈君」が「彦太忍信命孫武内宿祢之後也」、
「摂津国 坂本臣」が「彦太忍信命孫武内宿祢命之後也」と同じ様に見えますが、
「武内宿祢」と「武内宿祢命」で異なっていて、同一人物と考えるのは早いです。
これだけだと状況が分からないので、判断が出来ません。
ただ、近親だとは思います。
ちなみに、上記の二つの「姓(かばね)」は、「孫」となっているので、
考察と同じであるならば、「垂仁天皇」の時代の人物かも知れませんが、
そもそも、「日本書紀」の記載は、古事記の情報よりも後なので、
数世代ずれるかも知れません。
参照39のサイトには、「住吉大社神代記」の内容も書いていましたので、
参照40のサイトで確認しました。
「和加倭根子意保比比乃命」を「開化天皇」と書いていますが、
古事記で「若倭根子日子大毘毘命」、日本書紀で「稚日本根子彥大日々天皇」とあり、
確かに、音はあっている様です。
「倭」を使っているので、古事記よりと考えられます。
という事は、「若倭根子日子大毘毘命」より以前に「和加倭根子意保比比乃命」が、
存在した可能性もありそうです。
ただ、その存在した時代を知る情報が無いのが、残念です。
ちなみに、「和加倭根子意保比比乃命乃王子彦太忍信命兒。
葛木乃志志見乃興利木田乃忍海部乃刀自乎娶坐弖生兒」とありますが、
「彦太忍信命」の兒についての記載がありませんが、なぜなのでしょうか?
また、「息長帶比女乃御時爾大八嶋國乎事定了」とあり、
「大八嶋國」が存在している事を考えると、
「日本書紀」の基本となる時代よりも、前の可能性が出てきます。
その場合、もしかすると、紀元前700年とかかも知れません。
しかし、「筑紫國橿日宮天皇」を「仲哀天皇」と考えると、
記紀の情報と一致する場面もあり、時代を判断するのは難しいです。
あと、参照41のサイトに記載がある「彥布都意斯麻己止命」ですが、
「比古」が「彥」になっていますが、「布都意斯麻己止」が「一字一音」になっています。
なので。「比古布都押之信命」の子もしくは近親者の可能性が高そうです。
参照39:彦太忍信命
参照40:住吉大社神代記
参照41:彦太忍信命
本題ですが、古事記の正しい表記は「葛城長江曾都毘古」ですが、
「新撰姓氏録」にある表記には「長江」がありません。
ですが、一つだけ、「紀氏家牒」の
「故名二葛城長柄襲津彦宿祢一。葛城朝臣・的臣等之祖也。」のみが、
「葛城長柄襲津彦宿祢」と「長柄」が入っています。
他は、「紀氏家牒云、武内宿祢之子九。男子七、女子二。娶二葛城国造荒田彦之女、
葛比売一生二襲津彦宿祢一。家大倭国葛城県長柄里。」が、
「故名二葛城長柄襲津彦宿祢一。葛城朝臣・的臣等之祖也。」の前にあります。
「武内宿祢」と「葛城国造荒田彦之女、葛比売」が結婚して、
「襲津彦宿祢」が生まれたとあります。
ところが、「葛城襲津彦命」ではなく、
「葛城長柄襲津彦宿祢」ですので、別人の可能性があります。
家は、「家大倭国葛城県長柄里」とありますが、「大倭国」がどこにあるのか不明です。
しかし、九州の「福岡県柳川市」に「北長柄町」と「南長柄町」があるので、
もしかすると、この辺りが「大倭国」だったのではないか?と思っています。
後は、「家牒曰、葛城襲津彦児、盾人宿祢、亦曰二的戸田宿祢一。」と、
「盾人宿祢」や「的戸田宿祢」が子として、存在する様ですが、詳細は不明です。
参照42のサイトに「葛城長江曾都毘古」の各表記が載っていますが、
3パターンに分かれそうです。
1つ目が、「葛城」と「葛木」で、意味的に異なりますが、どの様に違うかは不明です。
2つ目が、「葛木曾頭日古命」と「葛城曾豆比古命」で、
「日古」と「比古」で異なるので別人なのですが、
「頭」を分解して「豆」にした事も違います。
3つ目が、「葛城長江曾都毘古」と「葛木襲津彥命」で「都」と「津」の違いです。
参照42:葛城襲津彦