神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】と與(ともに)
其の伊呂兄五瀬命【伊呂二字以音】二柱 高千穗宮而(に)坐して議(はかる)と云う
何(いずれ)の地者(は:短語)平(たいら)と聞き、
天下之政(まつりごと)を看ると坐す
猶(なお)東に行くを思う
卽(すなわち)日向自(より)筑紫に發(出発)し、行幸す
故、豐國の宇沙に到る之(この)時、
其の土人の名、宇沙都比古・宇沙都比賣【此十字以音】の二人で足一騰宮を作る
而(すなわち)、大御饗を獻(たてまつ)る
其の地自(より)遷移し而(すなわち)竺紫之岡田宮に於いて一年坐す
神倭伊波禮毘古命
「自伊下五字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。
「伊」:呉音・漢音:イ
「波」:呉音・漢音:ハ
「禮」:呉音:ライ、漢音:レイ
「毘」:呉音:ビ、漢音:ヒ
「古」:呉音:ク、漢音:コ
上記により、呉音「いはらいびく」、漢音「いはれいひこ」となりそうです。
今回も「佐知毘古」同様に、「音を以ってす」として「「音読み」指定」とあり、
「毘古」=「ひこ」にはなりそうにはありません。
たぶん、この最後の「びく」は、「海佐知毘古」または「山佐知毘古」から、
継承されたのではないか?と考えています。
また、前回の第六章の最後で、
「次若御毛沼命 亦名豐御毛沼命 亦名神倭伊波禮毘古命」とあり、
もし、本当に「若御毛沼命」が本名であるならば、ここでもその名を使うはずです。
なので、以前にも書いたように、
「若御毛沼命」と「神倭伊波禮毘古命」は別人である言えると思っています。
「神倭伊波禮毘古命與其伊呂兄五瀬命」の解読は、
「神倭伊波禮毘古命と與(ともに)其の伊呂兄五瀬命」となりますが、
なぜ、「伊呂兄」と付けているのでしょうか?
第六章最後の系譜で「五瀬命」、「稻氷命」、「御毛沼命」、「若御毛沼命」が登場するので、
別に、「伊呂兄」と付ける必要は無いと思います。
しかし、付けているという事は、大きな意味があるのだと思います。
「呂」は、「背骨」を意味するとも言われているので、
そこから、同じ家系と考える事が出来ます。
次に、字形について考えます。
「伊」は、今までは「聖職者」と書いてきましたが、参照1のサイトを見ると、
一番古い形が「商甲骨文子組」ですが、
「亻(にんべん)」と思われる形と「尹」と思われる形が逆になっています。
今のような形になったのは、「商甲骨文何組」の時代なので、
「商甲骨文子組」からすると、後の時代という事が分かります。
また、この「亻(にんべん)」と思われる形ですが、Wikiではこれを「尸」と考えて、
「一説には形声。甲骨文字では「人」ではなく「尸」(しゃがんでいる人)に従い、
「尸/*l̥[ə]j/」を声符とする形声字」と書いています。
参照2のサイトにある「人」の形の変遷からすると、
同じ「商甲骨文歷組」で比較すると、
確かに参照1のサイトの「商甲骨文歷組」と比べて、ここでは「人」だと言えます。
ですが、その前の「商甲骨文子組」からは大きく異なっていますし、
参照2のサイトにはありません。
この「商甲骨文子組」と「商甲骨文歷組」が、どれだけ離れているのか?ですが、
参照3のサイトの「尹」の範囲には、
「商甲骨文子組」、「商甲骨文午組」、「商甲骨文賓組」、「商甲骨文歷組」と間には、
2つの時代があるのが分かります。
ここで話を戻すと、普通に考えると、
この間の時代がどれだけの範囲なのかは不明ですが、
そこまで大きな変化は無かったと参照1〜3のサイトを見ると分かります。
他に、参照1のサイトの「商甲骨文子組」と「商甲骨文出組」では、
順番が逆転している様に見えます。
この2つの形は、「商甲骨文子組」の右側と、「商甲骨文出組」の左側が同じ様に見えます。
「商甲骨文子組」の右側と、「商甲骨文出組」の左側の形に見えるのが、
参照4のサイトの「尸」です。
参照4のサイトの「尸」の「説文解字」を見ると「陳也」とあり、
参照5のサイトの「陳」の「説文解字」を見ると「宛丘,舜後媿滿之所封」とあり、
「「媿滿」という人物が「宛丘」という「陳」の國に封じらてた」と書いています。
元々、「宛丘」=「陳」だった様です。
これは、「陳國」が滅亡したから「尸」という漢字が生まれたんでしょうか?
あまり、しっくり来ません。
参照4のサイトの「字源」では、「像箕踞之形」とあり、
「箕踞」とは「両足をなげ出してすわること」と検索すると出てきて、
この様な形をしているのが「尸」だと、具体例が出てきました。
「説文解字」でも、「象臥之形(象が臥(ふ)す形)」とありますが、
疑問しか出ませんでしたが、今回のは、イメージ出来ます。
ここから考えると、「尸」と「陳」は関係が無かったと考えられます。
参照1:伊: zi.tools
参照2:人: zi.tools
参照3:尹: zi.tools
参照4:尸: zi.tools
参照5:陳: zi.tools
この様に「伊」の字形について考察しましたが、
最初の一時期に多分、「別字衝突」があり、混乱していましたが、
参照1のサイトの「商甲骨文何組」にある形が、早い段階で固定されています。
なので、古事記における「伊」は、
「説文解字」にある「聖職者」や、「尹」が「治める」なので、
「治める人」で固定しようと思います。
上記の「伊」が「治める人」で、「呂」が「背骨」で「家系」と考えると、
「治める人の家系」=「伊呂」なのではないか?と考えています。
そうなると、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」の子の「若御毛沼命」と、
「神倭伊波禮毘古命」は別々の國を治めていると解釈する事が出来そうです。
多分に、「五瀬命」が主人公の話であれば、
逆に「伊呂兄もしくは弟、神倭伊波禮毘古命」と書かれていたのかも知れません。
「坐高千穗宮而議云(高千穗宮而(に)坐して議(はかる)と云う)」とありますが、
「高千穗宮」はどこに存在したのでしょうか?
地名に関しては全く登場していません。
「高千穗宮」は第六章の最後の方で、
「故日子穗穗手見命者 坐高千穗宮 伍佰捌拾歲 御陵者 卽在其高千穗山之西也」
とあり、これが初めての登場です。
多分に「日子穗穗手見命」から継承したと思われますが、
なぜ、継承する事になったのか?などについては、記事がありません。
他に気になるのが、「高千穗宮」を別系統の「神倭伊波禮毘古命」に譲ったのか、
それとも、「日子穗穗手見命」の後継者だったので、「高千穗宮」も継承したのかです。
とはいえ、情報が無いので推測の域を出ません。
次の文の「坐何地者 平聞看天下之政」の解読は、
「何(いずれ)の地者(は:短語)平(たいら)と聞き、天下之政(まつりごと)を
看ると坐す」となりますが、この「看」の漢字は、少々気になります。
普通であれば「見」を使うと思いますが、ここでは「看」を使っています。
「看」は「手」と「目」から出来ているので、
参照6のサイトのオンライン漢字辞書では、
「みる。よく見る。手をかざしてみる。注意してみる。のぞみみる。」、
「みすみす。みるみるうちに。やがて。」、「みる。見守る。番をする。世話をする。」の
意味があると書いています。
これから考えて、「天下之政(まつりごと)を看る」とは、
「天下之政(まつりごと)の世話をする」という解釈が出来ると思います。
他に気になるのが、「何(いずれ)の地」についてです。
なぜ、その地の名を書かなかったのでしょうか?
「何(いずれ)の地」では、どこを指しているのか分かりません。
「猶思東行 卽自日向發 幸行筑紫」の解読は、「猶(なお)東に行くを思う」と
「卽(すなわち)日向自(より)筑紫に發(出発)し、行幸す」になります。
よく「神武天皇(仮)は東征した」と言われていますが、古事記において、
明確に方角を示しているのは、この文だけになります。
さて、「日向」→「筑紫」が「東」に行く事になるのか、
古代の地図が無いので不明ですが、
この記事を信用するなら、西の「日向」から東の「筑紫」に移動したと考えられます。
「ちくし」と読めるのは、もう一つあり、「竺紫」が、第一章に存在しています。
「筑紫」にはm第一章に「筑紫嶋」と「筑紫國謂白日別」があり、
「竺紫」には、第一章に「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」があります。
「日向」という地名が、色々と存在している場合は、どこを指すのか分かりませんが、
仮に「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」の「日向」だとすると、「竺紫」も付いてきます。
ところが、今回の記事には、その様には書いていなくて、単に「日向」とあるだけです。
今後、関連する情報があった場合には、その都度考察します。
「故到豐國宇沙之時 其土人 名宇沙都比古・宇沙都比賣【此十字以音】二人 作足一騰宮」
の解読は、「故、豐國の宇沙に到る之(この)時、其の土人の名、
宇沙都比古・宇沙都比賣【此十字以音】の二人で足一騰宮を作る」となります。
さて、この「豐國の宇沙」は、
「日向」→「筑紫」に移動する間に存在した事になりますが、
「日向」→「豐國」→「筑紫」と「東」に移動したとなると、方角がおかしくなります。
現在の解釈では、
福岡県西部が「筑紫國」で東部が「豐國」だったと考えられている様です。
これに従うと、仮に「日向」が九州の西側にあったとすると、
「豐國」→「筑紫」では、東部→西部へ戻った事になります。
もちろん、「日向から筑紫」にある「東」が、現実には移動していない可能性もあります。
しかし、現在において、それを判断する情報がありません。
「此十字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。
「宇」:呉音・漢音:ウ
「沙」:呉音:シャ、漢音:サ
「都」:呉音:ツ、漢音:ト
「比」:呉音:ヒ、ビ、漢音:ヒ
「古」:呉音:ク、漢音:コ
上記により、呉音「うしゃつひ(び)く」、漢音「うさとひこ」となりそうです。
神社は、簡単に調べた限り、「宇佐神宮 境内 宇佐祖神社」の「菟狭津彦命」だけでした。
「菟狭津彦命」は、調べた結果、「菟」は「万葉仮名」で「う」に分類されますが、
音読みでは、「呉音:ズ(ヅ)、ツ、漢音:ト」なので、「う」と読むのは難しいです。
また、「狭」は、「訓読み」で「さ」なのであり、
音読みだと「呉音:ギョウ(ゲフ)、漢音:コウ(カフ)、慣用音:キョウ(ケフ)」
なので当てはまりません。
そうなると、どの様に読んでいたのか気になります。
「訓読み」の歴史を検索すると、「AI による概要」には「6世紀から7世紀」とあります。
年代として考えると、西暦500年〜600年となります。
しかし、そうなると、「狭」を「さ」と読んだのも、その頃なのでしょうか?
あと、「万葉仮名」の歴史について検索すると、「AI による概要」には、
「奈良時代に日本語を表記するために漢字を音や訓で借りて用いた文字です。」
とあります。
ですが、「万葉仮名」の事を調べていくと、
参照7のサイトに「5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣」が
一番古い物と認識されている様です。
参照7のサイトの先程の前文に、
「中国の史書『魏志倭人伝』(3世紀末)に「卑弥呼」「耶馬臺」等の先例がある」
と書いていますが、これは、「万葉仮名」ではなく、
単に「三文字」の言葉を使っていただけだと思っています。
なぜなら、「万葉仮名」は、列島(日本)にて作られた物なので、
わざわざ、古代中国人が使うのは、ほぼ無いと思います。
さて、古事記にある「歌」と言われる記事は、
古事記を編纂した人々のオリジナルなのでしょうか?
文と文の間に「歌」を挟む方法も、今回の第七章では使わていて、
古事記の情報源の時代(紀元前1000年頃〜)には、すでに使われていたと考えられます。
残すは「訓読み」についてですが、こちらも「注記」が付いている事からも、
紀元前1000年頃から使われていたと考えられます。
もちろん、すぐに広まるわけでは無いので、紀元前1000年よりも300年程前から、
試行錯誤して、作られてきたと考えています。
なので、よく、ユーチューブなどでは、
「縄文時代には文字は無かった」なんて書かれますが、
実際は、古代中国殷國の時代に「甲骨文」が出来てから、それらを列島に持ち込んで、
広めた人達が存在していたのだろうと思っています。
そもそも、古事記における注記ですが、予め情報が無ければ、
どの様に読むのか?という事を伝える事は出来ないでしょう。
参照7:万葉仮名
「宇沙都比古」は「うしゃつひ(び)く」と読む可能性が高いですが、
「菟狭津彦命」は「う(万葉仮名)さ(訓読み)」なので、
統としては別の可能性があります。
しかし、なぜ、「宇佐神宮」にしか祀られていないのでしょうか?
もしかすると、最初は「宇沙(うしゃ)」だったが、
時代が進み、「しゃ」→「さ」と思われた時に、
「宇佐」と名付けしたのでは無いでしょうか?
実際に、「伊邪(いじゃ)」→「いさ」になった例があります。
別系統の可能性ですが、「宇沙都比古」は「一字一音」なのに対して、
「菟狭津彦命」の「彦」は「一字二音」になっているので、
もし、仮に「宇沙都比古」の子孫が「菟狭津彦命」だったとすると、
西暦に入ってからだと思います。
しかし、「つ」を「都」と「津」で別れているので、別系統だと考えています。
あと、「宇沙都比古」の「比古」が「びく」なので、
「神倭伊波禮毘古命」と繋がりがあるかも知れませんが、情報が無いので不明です。
「宇沙都比賣」もありますが、こちらは「比賣」=「ひめ」なので、
問題ないとして、こちらでは、考察しません。
「自其地遷移 而於竺紫之岡田宮一年坐」の解読は、
「其の地自(より)遷移し而(すなわち)竺紫之岡田宮に於いて一年坐す」になります。
「其の地」とは、どこを指すのでしょうか?
「日向から筑紫」と「豐國に到り」から、
「卽(すなわち)日向自(より)筑紫に發(出発)し、行幸す」と
「故到豐國宇沙之時」が、同じ時間軸だったと仮定した場合、
「日向」→「豐國」→「筑紫」と移動した事になります。
しかし、もし、時間軸が異なるのであれば、
当然ですが「日向」→「筑紫」と
「日向」→「豐國」の2つの話があるという事になります。
これについては、根拠となる情報が無いので、どちらが正しいかは不明です。
でも、普通に考えれば、「豐國の宇沙(うしゃ)」の「足一騰宮」の事だと思いますが、
この情報の信憑性がありません。
また、移動した場所が「竺紫之岡田宮」になっています。
この場所に関しては、第一章に「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」がありますが、
関係ある場所だというのが分かりますが、現在地としては不明です。
よく「筑紫」と間違われますが、「筑」と「竺」で表記が異なるので、当然、違います。
「竺紫」を検索すると、
「一般的に九州地方を指す古称」と「AI による概要」にはありますが、
どこにも、その様な事は古事記には書かれていないので違うでしょう。