故爾(ゆえに)邇藝速日命が赴(おもむ)いて參り、天神御子に於いて白(もう)す
天神御子は聞き、天から降りて坐す
故、追って參り降りて来る
卽(すなわち)、天津を獻(たてまつり)、瑞を以て仕奉(つかえたてまつる)也
故(ゆえ)、邇藝速日命は登美毘古之妹・登美夜毘賣を娶り、生子 宇摩志麻遲命
此れ者(は:短語)、物部連・穗積臣・婇臣の祖也
故、此の言向の如くに、平和荒夫琉神等【夫琉二字以音】、
人等を不伏(ふせず)に退き撥(おさめる)
而(すなわち)、畝火之白檮原宮に坐し、天下を治める也
故、日向に坐す時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣【自阿以下五字以音】を娶り、
生子 多藝志美美命、次、岐須美美命 二柱坐也
然し更に、大后之美人を求めて爲す時、大久米命曰く
此の間に媛女有り
是(これ)、神御子と謂う
其の所を以て神御子と謂う者(は:短語)、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、
其の容姿麗美故、美和之大物主神が感じて見る
而(すなわち)、其の美人大便を爲す之(この)時、丹に化けて矢に塗る
其の大便を爲した之(これ)溝自(より)下に流す
其の美人之富登【此二字以音 下效此】を突く
爾(なんじ)其の美人が驚く
而(すなわち)伊須須岐伎【此五字以音】が走り立つ
乃(すなわ)ち、將(まさに)其の矢が来て、床の邊(あたり)に置くに於いて、
忽(たちまち)麗しき壯夫(おとこ)に成る
卽(すなわち)其の美人を娶り、生子 名富登多多良伊須須岐比賣命と謂う
亦の名、比賣多多良伊須氣余理比賣と謂う
是(これ)者(は:短語)其の富登を惡むと云う
改名者(は:短語)事後也
故、是(これ)を以て神御子と謂う也
是於(これにおいて)七媛女 高佐士野【佐士二字以音】に於いて遊びに行く
伊須氣余理比賣在る其の中、
爾(なんじ)大久米命、其の伊須氣余理比賣を見る
而(すなわち)、歌を以て天皇に於いて白(もう)して曰く
夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟
やまとの たかさじのを ななゆく をとめども たれをしまかむ
爾(なんじ)伊須氣余理比賣者(は:短語)、其の媛女等之前に立つ
乃(すなわ)ち、天皇其の媛女等を見る
而(すなわち)、御心をる知伊須氣余理比賣の最前に於いて立ち、歌を以て答えて曰く
加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟
かつがつも いやさきだてる えをしまかむ
爾(なんじ)大久米命、天皇之命を以て、
其の伊須氣余理比賣に詔(みことのり)之(この)時、
其の大久米命を見て、利(するどい?)黥(いれずみ)を目而(に)奇しく思い歌を曰く
阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
あめつつ ちどりましとと などさけるとめ
爾(なんじ)大久米命、歌で答えて曰く
袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
をとめに ただにあはむと わかさけるとめ
故、其の孃子(むすめこ)之(これ)白して仕奉(つかえたてまつる)也
是於(これにおいて)、其の伊須氣余理比賣命之家に在る狹井河之上、天皇幸行す
其の伊須氣余理比賣之(これ)一宿を許し、御寢で坐す也
其の河を佐韋河由と謂う者(は:短語)、其れに於いて 河邊の山由理草多く在る
故、其の山由理草を取り、之(これ)の名佐韋河と號(呼び名)する也
山由理草之本名、佐韋と云う也
後、其の伊須氣余理比賣、宮內に參り入る之(この)時、天皇御歌曰く
阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯
あしはらの しけしきをやに すがたたみ いやさやしきて わがふたりねし
然し而(すなわち)阿禮に坐す之(この)御子の名
日子八井命、次、神八井耳命、次、神沼河耳命の三柱
故、天皇崩(崩御)後、
其庶兄の當藝志美美命は娶其の嫡后伊須氣余理比賣を娶る之(この)時、
將(まさに)其の三弟は之(この)間(あいだ)而(に)謀り殺す
其の御祖伊須氣余理比賣は苦しさを患う
而(すなわち) 歌を以て、其の御子等を知るを令(うながし)歌曰く
佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須
さゐかはよ くもたちわたり うねびやま このはさやげぬ かぜふかむとす
又歌曰
宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流
うねびやま ひるはくもとゐ ゆふされば かぜふかむとぞ このはさやげる
勢夜陀多良比賣
「故坐日向時 娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣【自阿以下五字以音】生子
多藝志美美命 次岐須美美命 二柱坐也」の解読は、
「故、日向に坐す時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣【自阿以下五字以音】を娶り、
生子 多藝志美美命、次、岐須美美命 二柱坐也」になります。
「阿多之小椅君」の「阿多」は、「鹿児島県南さつま市や日置市に相当する地域」の
「阿多」を指しているのかは不明です。
日本書紀では、「長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命」とありますが、
古事記では「日向國」とは書いていないですし、
そもそも、「吾田邑」の存在自体が、どこに存在したか不明の様です。
それに、「阿比良比賣」は「比賣」で高位だと思われるのに対して、
「吾平津媛」は、古事記に存在しない「津」があったり、
「媛」だったりと不自然な点が多いです。
なので、同一人物と考えるのは間違いだと思います。
また、「多藝志美美命」と「手硏耳命」も同一人物とは思えません。
「手」を「た」と読むのは、例外中の例外だと思うので、
これで「手」=「た」というのはおかしいです。
「硏」も「ぎし」と読むのは難しいでしょう。
つまり、「手硏耳命」も「吾平津媛」同様に、子孫かどうかは不明ですが、
その様に読ませていたという事は、古事記の人物の後裔と思われます。
でも、普通に読めば、ありえないので、
漢字を読める人は、同一人物とは思わないでしょう。
ちなみに、なぜか、
日本書紀には、二女と思われる「岐須美美命」に関しては載っていません。
これは、やはり、「娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命」は、
別の一族の情報から持ってきたのだと思われます。
「其所以謂神御子者 三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣 其容姿麗美
故美和之大物主神見感」の解読は、
「其の所を以て神御子と謂う者(は:短語)、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、
其の容姿麗美故、美和之大物主神が感じて見る」になります。
まず、「美和」ですが、福岡市東区美和台があります。
これは、もちろん、直接的には、関係ありません。
しかし、「「三苫」側と「下和白」側」から取った「美和台」ですが、
なぜ、「三苫」→「三」→「美」と変換したのでしょうか?
別に「三苫」の「三」でも、全然良かったと思います。
そこで、思ったのが、
昔の資料に「美和」という地名があったのではないか?と考えました。
別に「三」でなくても「苫」でも良かったわけですし、
その方が、両方から取った事がすぐにわかったと思います。
もちろん、この推測は、勝手な憶測でしかありませんが、
ありえるのではないか?と思っています。
日本書紀では「三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛」とあり、
古事記の「三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣」とは完全に異なっています。
なので、こちらも同一人物と考えるのは間違いでしょう。
また、名の意味も異なっていて、
「三嶋湟咋」の「湟」は「ほり」、「咋」は「かむ」なので、
ここから「ほりに何かを噛ませる仕事」をしていたと解釈できます。
たぶん、「堀の上に橋を渡した」とも解釈出来ます。
「橋」という漢字も数カ所使っているので、問題は無いと思います。
次に、「三嶋溝橛耳神」の「溝」は「みぞ」、「橛」は「けつ」で
「門のしきい、杭(くい)、真言宗の仏具である小柱などを指します。」
と検索したら見つかりました。
つまり、「三嶋湟咋」に似た漢字を使ったと思われます。
ただ、「三嶋湟咋」には「耳」が付いていませんし、「神」の地位でもありません。
これらから考えて、仮に「三嶋湟咋」の子孫が「三嶋溝橛耳神」だった場合、
ここまで違う漢字を使っているので、200年以上の後世なのかも知れません。
あと、共通している「三嶋」ですが、
これは、日本各地に同じ名があっても不思議では無いので、
判断しにくいですが、検索すると「AI による概要」では、「古代の文献に見られる
「三嶋(みしま)」は、一般的に九州南部に位置する地域を指すと考えられています。
具体的には、現在の鹿児島県の種子島や屋久島など、
南西諸島の一部を指すことが多いです。」とありますが、
これは、少々無理がある様に思えます。
確かに、地域を区切って「嶋」とする事もありますが、さすがに広範囲すぎます。
とはいえ、先程も書きましたが、どこにもありそうな地名なので、
古代九州でも存在していても不思議では無いと考えています。
狹井坐大神荒魂神社
勝占神社、率川神社
伊豆佐比賣神社
由豆佐賣神社
三島神社
西外城田神社
「勢夜陀多良姫命」が存在しているという事は、
長い間、この名が継承されてきたのだと思います。
「玉櫛姫命」に関しては、日本書紀にあるのは「玉櫛媛」なので、
「姫」という名を考えると、以外に近い関係だったのかも知れませんが、
情報がありません。
「溝咋比賣命」→「溝樴姫命」→「溝杙姫命」→「三嶋溝杙姫命」と
「溝」系は繋がってきたのではないか?と考えています。
「溝樴姫命」の「樴」は「牛馬をつなぐ木のくい。」、
「溝杙姫命」の「杙」は「地中に打ちこんで牛馬などをつなぐ棒ぐい。」なので、
この一族は、「牛馬」関係の仕事をしていた可能性がありそうです。
そもそも、日本書紀で「三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣」とイコールにしたのが、
「三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛」なわけですが、
なぜ、これで同じ場面と思ってくれると考えていたんでしょうか?
どこにも「勢夜陀多良比賣」=「玉櫛媛」とする情報が無いので、ありえないです。
それは、この情報を読んだ人達も、
頭の中に「はてな」が浮かんだのでは無いでしょうか?
「自其爲大便之溝流下」の解読は、
「其の大便を爲した之(これ)溝自(より)下に流す」になります。
この溝が、「上水道」で、その下が「下水道」だとすると、
この都市は、相当、発展していたのだと思います。
現実に、まだ、発掘されていない様ですが、紀元前1000年頃には、
「紀元前2500年頃にインダス文明のモヘンジョダロで建設された、
生活用水を引くための水道施設でした(AI による概要)」を作った人々が、
数世代の移動により、列島の九州にやってきて、
「上下水道」を作ったとしても不思議では無いです。
「卽娶其美人生子 名謂富登多多良伊須須岐比賣命 亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣」
の解読は、「卽(すなわち)其の美人を娶り、生子 名富登多多良伊須須岐比賣命と謂う」
と「亦の名、比賣多多良伊須氣余理比賣と謂う」になります。
この亦の名ですが、「比賣多多良伊須氣余理比賣」では、
「富登多多良伊須須岐比賣命」にある「命」の地位が無いので、
本当に亦の名なのか疑問です。
以前にも書いた事があるかも知れませんが、「亦」であるならば、やはり、
元の名にある「地位」は、同じで無くてはダメだと思います。
現代では、同じ読みだけど、表記が違うとなれば、必然的に疑問になります。
変更の箇所は、「富登多多良伊須須岐比賣命」が本名で、
「比賣多多良伊須氣余理比賣」が亦の名になりますが、「富登」→「比賣」になり、
「須岐」→「氣余理」になっています。
「富登」→「比賣」については、「富登」は「富に登る」と解釈できますが、
亦の名にしたのでは、意味がある様には思えません。
「須岐」→「氣余理」については、
なぜ、本名は「二字」なのに、亦の名では「三字」に増えるのか、疑問です。
「須」が「ひげ」、「岐」は「分かれ道」なので、
「ひげの様に長い分かれ道」と解釈できます。
では、「氣余理」はとなると、「氣」が「説文解字」では「客への贈り物」、
「余」は字源不明、「理」は「玉を加工する」なので、
「玉を加工し、それを客に贈り物として渡し、それが余っている」と解釈できます。
現代だと、「ネット通販」の様なものかも知れません。
「氣」の「お客への贈り物」はもしかすると、「売買」の可能性もありますし、
「余っている」のは「余剰がある」と考えると、「売買」する場所を作り、
そこで場所代などをもらうと言った職業をしていたのかも知れません。
ちなみに、日本書紀にある「媛蹈韛五十鈴媛命」ですが、
「比賣多多良伊須氣余理比賣」を見て分かる様に、「五十鈴」とは書いていないので、
全く別の一族だと思われます。
あと、「富登多多良伊須須岐比賣命」の両親の事ですが、
「忽(たちまち)麗しき壯夫(おとこ)に成る」の男性が多分に父親だと思います。
母親も名を出さすに「卽(すなわち)其の美人を娶り」と書いているだけです。
見られると困るのでしょうか。
大神神社
美保神社 大后社に合祀の姫子社、橿原神宮
貴船神社 境内 鈴市社、佐波々地祇神社、狹井坐大神荒魂神社、東大谷日女命神社、
率川神社
刀我石部神社
三嶋大社 境内 若宮神社
この神社の祭神名で分かったのは、先程、「比賣多多良伊須氣余理比賣」と
「媛蹈韛五十鈴媛命」は別一族だと思うと書きましたが、
「比賣多多良五十鈴姫命」がある事で、派生した一族では?と思うようになりました。
「比賣多多良伊須氣余理比賣」は、代々継承されて来たけど、
今まではあまり表に出てこなかったのだと思います。
ところが、「天(あま)の皇(おう)」との関わりで表に出て来たのだと思います。
その過程で、「比賣多多良伊須氣余理比賣」家と「比賣多多良五十鈴姫命」家が、
別行動をおこしたのだと思います。
とはいえ、「比賣多多良五十鈴姫命」家が出来たのは、
今回の場面のだいぶ前だと思うので、
そこから継承されてきて、「媛蹈鞴五十鈴媛命」に変化し、
「姫踏鞴五十鈴姫命」に変化したのだと思います。
「媛蹈鞴五十鈴媛命」と「姫踏鞴五十鈴姫命」の間に、親子関係は無いと思いますが、
「媛」→「姫」に変化するまで、4〜5世代はずれている可能性がありそうです。
最後に「五十鈴姫命」は、大宝律令以前の最後の最後だと思います。
そうでなければ、「五十鈴依媛命」などの間違えない名が近くにあれば、
継承した人物も、いろいろと名の表記を考えたと思います。
しかし、それをしていないという事は、「大宝律令」前の最後の方の人物だと思います。
ちなみに、
「是(これ)者(は:短語)其の富登を惡むと云う」とこの文の後にありますが、
本当に「惡んで」いたのならば、
それは「亦の名」ではなく「改名」と書くべきだと思います。
ところが、「亦の名」としているのと、「命」の地位の有無から考えて、
もしかすると、「比賣多多良五十鈴姫命」ではなく、別の名が存在したのではないか?
と考えてしまいます。