最終更新日 2025/10/06

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 第七章 神武天皇から開化天皇まで

爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命二人 召兄宇迦斯罵詈云
伊賀【此二字以音】所作仕奉於大殿內者 意禮【此二字以音】先入 明白其將爲仕奉之狀而
卽握横刀之手上矛由氣【此二字以音】矢刺 而追入之時 乃己所作押見打而死 爾卽控出斬散
故其地謂宇陀之血原也 然而其弟宇迦斯之獻大饗者 悉賜其御軍 此時歌曰

宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流

古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆

伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜

此者伊能碁布曾【此五字以音】阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也

故、其弟宇迦斯、此者宇陀水取等之祖也。


自其地幸行 到忍坂大室之時 生尾土雲訓云具毛八十建 在其室待伊那流【此三字以音】故爾
天神御子之命以 饗賜八十建 於是宛八十建 設八十膳夫 毎人佩刀 誨其膳夫等曰 聞歌之者
一時共斬 故明將打其土雲之歌曰

意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母

美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜 麻牟 美都美都斯

久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯

如此歌而 拔刀一時打殺也 然後 將擊登美毘古之時 歌曰

美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登

曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟

又歌曰

美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久

和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟

又歌曰

加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能

伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟

又擊兄師木・弟師木之時 御軍暫疲 爾歌曰

多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆

和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥
解読

爾(なんじ)大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命の二人、
兄宇迦斯を召して、罵詈を云う

伊賀【此二字以音】の所で作った大殿內に於いて者(は:短語)仕奉(つかえたてまつる)

先に意禮【此二字以音】が入り、其の將(まさに)仕奉(つかえたてまつる)
之(この)狀(かたち)而(しかも)明白と爲す

卽(すなわち)、横刀之手上で握る

矛の矢由氣【此二字以音】に刺さり、而(すなわち)追って入る之(この)時、
乃(すなわ)ち、己の所作を押し見る而(に)打ちて死す

爾(なんじ)、卽(すなわち)、斬り散らすを控えて出す

故、其の地、宇陀之血原と謂う也

然し、而(すなわち)、其の弟宇迦斯之(これ)大饗者(は:短語)獻(たてまつる)

悉く其の御軍に賜り、此の時、歌を曰く

宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流

うだの たかきに しぎわなはる わがまつや しぎはさやらず いすくはし くぢらさやる

古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆

こなみが なこはさば たちそばの みのなけくを こきしひゑね うはなりが なこはさば

伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥

いちさかき みのおほけくを こきだひゑね

疊疊(じょうじょう?音引)は志夜胡志夜(しやこしや)

此れ者(は:短語)伊能碁布曾【此五字以音】、
阿阿(ああ、音引)は志夜胡志夜(しやこしや)

此れ者(は:短語)、嘲咲(あざわらう?)者也


其の地自(より)行幸す

忍坂大室に到る之(この)時、生尾土雲【訓云具毛】八十建、
其の室に待ちて在る伊那流【此三字以音】を待つ

故爾(ゆえに)、天神御子之命を以て、八十建を賜り饗’(もてなす)

是於(これにおいて)、八十建に宛てて、八十膳夫を設ける

刀を人が佩く毎に、其の膳夫等に誨(おしえ)曰く

歌を聞く之(これ)者(は:短語)、共に一時斬る

故、將(まさに)明るく打ち、其の土雲之(これ)歌曰く

意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母

おさかの おほむろやに ひとさはに きいりをり ひとさはに いりをりとも

美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯

みつみつし くめのこが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ みつみつし

久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯

くめのこらが くぶつつい いしつついもち いまうたばよらし

此の歌の如く而(に)、刀を一時拔き打ち殺す也

然し後、將(まさに)登美毘古を撃つ之(この)時、歌曰く

美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登

みつみつし くめのこらが あはふには かみらひともと そねがもと

曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟

そねめつなぎて うちてしやまむ

又、歌曰く

美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久

みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちひひく

和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟

われはわすれじ うちてしやまむ

又、歌曰く

加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能

かむかぜの いせのうみの おひしに はひもとほろふ しただみの

伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟

いはひもとほり うちてしやまむ

又、兄師木・弟師木を撃つ之(この)時、御軍疲れて暫(しばし)、爾(なんじ)歌曰く

多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆

たたなめて いなさのやまの このまよも いゆきまもらひ たたかへば

和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇(声注:上)加比賀登母 伊麻須氣爾許泥

われはやゑぬ しまつとり   うかひがとも     いますけにこね

解説

05

道臣命と大久米命


道臣命と大久米命

「爾大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命二人 召兄宇迦斯罵詈云」の解読は、
「爾(なんじ)大伴連等之祖・道臣命、久米直等之祖・大久米命の二人、
兄宇迦斯を召して、罵詈を云う」になります。

前文の「故、向かって參り顯(あきらか)に白(もう)す」が
関係しているかと思っていましたが、
「罵詈雑言」を言われる状況とは違うと思います。

「兄宇迦斯」に関する記事は、
「僕(やつがれ、使用人)の兄 兄宇迦斯 天神御子之使いに將(まさに)射返すと爲す」
ですが、その前までは「大殿」を作る話だったのに、
突然「天神御子之使い」が登場します。

「天神御子之使い」がそのままの意味であれば、問題ないですが、
もし、仮にそれが「スパイ」だった場合は、「射返す」事もあるだろうと思います。

とはいえ、状況がぶつ切り状態なので、当時の状況が良く分かりません。

また、仮に、とんでも無い状況を作ったとしても、
二人から「罵詈雑言」を言われる理由があるとは思えません。

これにより、別の文があり、そこに真実が書かれている可能性があります。

道臣命の神社

道臣命

刺田比古神社、圓田神社、林神社(砺波市林)、伴林氏神社、住吉大伴神社

日臣命

林神社(砺波市頼成)

刺田比古神社 和歌山県和歌山市片岡町2-9

参照9のサイトにある「刺田比古神社御由緒略記(確認できず)」には、
「道臣命十世の孫刺氐比古命(狭手彦命)」とありますが、
「狭手彦命」と同一人物ではありません。

また、「刺氐比古命二十世の裔大伴武持」、「大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀」
と系譜についても書かれていて、すごく有用ですが、原文が見つかりませんでした。

ここで分かったのは、「狭手彦命」とは別に「刺氐比古命」が存在した事です。

今まで、「狭手彦命」しか見ていなかったので、新鮮に見えます。

参照9:刺田比古神社

大久米命の神社

「大久米命」ですが、調べると、「大来目主」、「大久目命」、「天津久米命」、
「天槵津大来目」などと混同している人が多いですが、
「大来目」は「おおくめ」ではなく、「おおくるめ」だと思いますし、
「大久目命」は表記が異なり、「天津久米命」は「久米命」は共通ですが、
こちらは「天(あま)一族」なので違います。

そもそも、「久米」と「来目」は「くめ」と「くるめ」で間違いそうになると思うので、
日本書紀で注記があっても良さそうだと思いました。

しかし、日本書紀の原文を見ても、「来目」=「くめ」と読むという注記がありません。

なので、「来目」は「くるめ」なのだと思います。

また、「久米」の「久」は「音読み」の呉音で「く」で、
「米」は万葉仮名で「め」になります。

ですが、「来目」の場合、「来」を「久」と同じ「く」と読む時は、
「訓読み」で読む以外にありません。

これにより、「来目」=「くめ」と読む事自体が難しいという事になります。

由氣

「矛由氣【此二字以音】矢刺 而追入之時 乃己所作押見打而死」の解読は、
「矛の矢由氣にが刺さり、而(すなわち)追って入る之(この)時、
乃(すなわ)ち、己の所作を押し見る而(に)打ちて死す」になります。

最初、「由氣【此二字以音】の矛而(に)矢が刺さり、追って入る之(この)時、
乃(すなわ)ち、己の所作を押し見る而(に)打ちて死す」と解読しましたが、
「由氣」の使いみちが気になって変更しました。

「由氣」の意味が分かりません。

「此二字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。

「由」:呉音:ユ、漢音:ユウ(イウ)、慣用音:ユイ

「氣」:呉音:ケ、漢音:キ

上記により、呉音「ゆけ」、漢音「ゆうき」になりそうです。

「由氣【此二字以音】の矛」と解釈しましたが、「矛由氣」なのかも知れません。

そこで字形を考察します。

由の字形

参照10のサイトにある「漢字辞書」を見ると、
「説文解字」、「字源」、「漢多」のどれもが三者三葉の様に、別の案を出しています。

つまり、何が「字源」なのか不明と言う事になります。

参照10:由: zi.tools

説文解字

「説文解字」ですが、「木生條也」とあり、
他に「《商書》曰:「若顚木之有㽕枿。」」とあります。

最初が「生の木の條(えだ)」と解釈出来、
次のが「若い木が顚(たおれ)、之(これ)倒木から再び芽吹く若い枝が有る」
と解釈出来ます。

字源

「字源」では「象形 像缶……本义是缶……缶为日常用品」とあり、
日用品の「缶」だとしています。

しかし、これは苦しい解釈で、
「商甲骨文𠂤組」の時点で「缶」は存在していないと思われます。

ただ、参照11のPDFを見ると、
「殷周容器の概観」の「酒器」の「1盛酒器」に「缶」とあり、
ふりがなに「フ」とあります。

ところが、「缶(壷)」は
「自名器によると、球形に近い胴に、筒形の口頚と低い圏台がっく壷。
蓋と胴に環耳をつけている。春秋・戦国期に限られる。」とあり、
「商甲骨文𠂤組」にあったと考えるのは難しいです。

「缶 壷 歴史 古代中国」で検索して調べると、
「歴史:殷(商)時代から周時代にかけて盛んに作られ、特に西周時代には、
礼制の中で重要な役割を果たしました。
その後、秦・漢時代には青銅器の製作は衰退しましたが、
儒教の儀式である釈奠(せきてん)で祭器として使われ続けました。」と書かれています。

これが本当なのかを判断する情報が見つかりませんでした。

ちなみに、「缶(ふ)」は楽器としても使われていたようです。

参照11:古代東アジアの金属製容器I (中国編)

漢多

参照10のサイトの「漢多」には、下記の様に書いています。

甲骨文「由」字首先由唐蘭釋出,他認為字從「冑」之初文省略而來,
象古時戰士所戴之頭盔之形,參見「冑」。

唯張玉金、陳劍已先後指出「冑」只是以「由」為聲符,故此說未足採信。

陳劍提出「由」字甲金文從「口」,「丨」聲。

「丨」為「針」的初文,「針」、「由」古音相近,因此「由」或以「針」為聲符,可備一說

上記の様に、「漢多」では「冑」とか「針」とか、一定していません。

まとめ

この様に、「説文解字」、「字源」、「漢多」で考えが一致していません。

参照10のサイトで、字形を見ると「器に水滴が落ちている」様に見えます。

氣の字形

参照12のサイトにある「説文解字」には「饋客芻米也」とあり、
これを解読すると、「米芻(わら)を客に饋(おくる)也」になります。

つまり、今まで言われてきた「気体」などの意味は無いと言えそうです。

Wikiにも「「米」+音符「气 /*KƏT/」。「食べ物を贈る」を意味する漢語{餼}を表す字」
とあるので、これは間違いが無いと思われます。

では、なぜ、「米芻(わら)を客に饋(おくる)」事が、
「ガス」の様な気体となってしまったのか、非常に気になります。

次に「異体字」と言われている「気」は、参照13のサイトにありますが、
こちらでも「字義」には同じ様な事が書かれています。

しかし、こちらには「字形」に関しては載っていません。

違うのは「「氣」的異體字」と書いている事です。

「气(きがまえ)」では、
参照14のサイトにある様に「商甲骨文賓組」から存在していますが、
なぜか、「氣」も「気」も、この時代からの字形は掲載していません。

「氣」の最初は「秦簡帛放馬灘」からですし、
「気」に関しては、一つも掲載していません。

なぜ、互いに「甲骨文字」と「金文」が存在しないのか?疑問です。

検索しても、「説文解字」を見ずに、自己解釈しているサイトばかりになっています。

そして、「气(きがまえ)」の「甲骨文字」は見つかりますが、
「氣」や「気」の「甲骨文字」が見つかりません。

そこで、考察していて思ったのが、
もしかして、「氣」と「気」と「气(きがまえ)」は
「別字衝突」で無いか?という事です。

「气(きがまえ)」は確かに「雲」などの形なのかも知れませんが、
「氣」と「気」が「气(きがまえ)」で成立しているのは、
「气(きがまえ)」の様な見た目だからです。

もしかすると、「氣」と「気」が、「气(きがまえ)」ではなく、
違う工程により、似た形になった可能性もあると思います。

なにせ、見た目以外に証明する事は、現時点では無理になっているからです。

参照12:氣: zi.tools

参照13:気: zi.tools

参照14:气: zi.tools

まとめ

この様に考察したわけですが、どの様に考えるのが良いのか、判断が難しくなりました。

しかし、一つの考えが見つかりました。

まとめ

これで「由氣」の字形を考察したわけですが、
結局、どちらも、字源についての決定的証拠がありませんでした。

そこで、最初に戻り、原文を見てみると、不自然な事が見つかりました。

「矛由氣【此二字以音】矢刺」ですが、「矛」に「矢が刺さる」のは、
形状を見ると、結構難しいと思います。

そこで「矢由氣」は「矢避け」ではないか?と思っています。

つまり、矛に付けていた矢避けに刺さったと思われます。

ただ、これは「楯」ではなく、「矢」に対する処置だったのではないか?と思っています。

もし、「楯」であるならば、その様に書けば良いだけですし、
今までにも「神屋楯比賣命」の様に「楯」という漢字が登場しているので、
ここで、わざわざ、「楯」を使わない文にする意味がありません。

大饗

「然而其弟宇迦斯之獻大饗者」の解読は、
「然し、而(すなわち)、其の弟宇迦斯之(これ)大饗者(は:短語)獻(たてまつる)」
になります。

「大饗」をWikiで調べると
「平安時代に内裏または大臣の邸宅で行った大規模な饗宴のことである」
とありますが、これは嘘で、紀元前660年頃でも、
今回の文の様に使われていたと言えます。

また、前文より前に、「其の」に値する記事が見えません。

前文は、「爾(なんじ)、卽(すなわち)、斬り散らすを控えて出す」と
「故、其の地、宇陀之血原と謂う也」です。

「其の」の記事が無いのは、都合が悪いからでしょうか?

もしかすると、「其の」の部分が書かれた文には、
ここにいてはダメな人物や、地域名が書かれていたのではないか?と考えてしまいます。

忍坂大室

「自其地幸行 到忍坂大室之時 生尾土雲訓云具毛八十建
在其室待伊那流【此三字以音】」の解読は、「其の地自(より)行幸す」と
「忍坂大室に到る之(この)時、生尾土雲【訓云具毛】八十建、
其の室に待ちて在る伊那流【此三字以音】を待つ」になります。

まず、「忍坂大室」ですが、紀元前660年頃において、近畿地方は整備されていないので、
この「忍坂」も古代九州近域の地名だと思われます。

また、「生尾土雲【訓云具毛】八十建」は、
なぜ、わざわざ、「雲」=「ぐも」と注記を付けたのでしょうか?

今までにも、「雲」=「ぐも」と読ませた名があったと思います。

これは、自分達が読みが分からずに、「雲」=「くも」と読んでいるのもあるでしょう。

いろいろなサイトで書かれているように、「土雲」=「土蜘蛛」なのだと思いますが、
本来は「蜘蛛」ではなく「雲」なのが分かります。

「土雲」と呼ばれた人達は、「雲」だと分かりづらいですが「蜘蛛」だと、
「手足が長い」イメージがあり、「手足が短い」当時の人達は、びっくりしたでしょう。

この「手足が長い」は、古代ヨーロッパ人だったろうと思います。

とはいえ、ヨーロッパから長旅で、一代で来た人も居ただろうと思いますが、
多くは、何世代もかけて、列島にやってきたと思われます。

あと、「伊那流」も呉音「いなる」、漢音「いだりゅう」となります。

この「いなる」という言葉を検索しましたが、情報は見つかりませんでした。

ちなみに、この「土雲八十建」についてですが、2つの文が、この後にあります。

「故爾(ゆえに)、天神御子之命を以て、八十建を賜り饗’(もてなす)」と
「是於(これにおいて)、八十建に宛てて、八十膳夫を設ける」です。

どうやら、「八十建」は調理の腕が良かった様で、
「八十膳夫」が作られる程貢献した様です。

他に、「故、將(まさに)明るく打ち、其の土雲之(これ)歌曰く」とあり、
「土雲」自体が政府の一員として働いていたと解釈できます。

擊登美毘古

「如此歌而 拔刀一時打殺也 然後 將擊登美毘古之時 歌曰」の解読は、
「此の歌の如く而(に)、刀を一時拔き打ち殺す也」と
「然し後、將(まさに)登美毘古を撃つ之(この)時、歌曰く」になります。

しかし、この後に、「登美毘古」が死んだという記事が無いので、
死んでいないと思います。

まして、前後の文章もおかしいので、多分に別の文同士なのだと思います。

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