是於(これにおいて)、其の御子而(に)知るを聞き驚く
乃(すなわ)ち、將(まさに)當藝志美美を殺す之(この)時、
神沼河耳命曰(い)うと爲す
其の兄神八井耳命、那泥【此二字以音】汝命の持つ兵而(に)入り 當藝志美美を殺す
故、持っている兵に入るを以て、將(まさに)殺す之(この)時、
手足を和那那岐弖【此五字以音】し殺不得(ころせず)
故爾(ゆえに)、其の弟神沼河耳命、其の兄が乞うて取る所で持つ之(この)兵、
當藝志美美を殺しに入る 故、亦、其の御名を稱(たた)えて、建沼河耳命と謂う
爾(なんじ)神八井命、弟建沼河耳命に讓って曰(い)う
吾者(は:短語)仇(あだ)を殺すのは不能(よくない)
汝の命、既得で仇(あだ)を殺す
故、吾、兄と雖(いえども)上に不宜(よくない)と爲す
是以(これをもって)、汝の命、上で天下を治めると爲す
僕(やつがれ、使用人)者(は:短語)、汝の命を扶(たす)けて、
忌人而(に)仕奉(つかえたてまつる)と爲す也
故、其の日子八井命者(は:短語)、茨田連、手嶋連之祖
神八井耳命者(は:短語) 、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、
筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、
常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也
神沼河耳命者(は:短語)天下を治める也
此の凡て神倭伊波禮毘古天皇も御年は壹佰參拾漆歲(137歳)
御陵は畝火山之北方白檮尾上に在る也
神沼河耳命、葛城高岡宮に坐し天下を治める也
此の天皇、師木縣主之祖 河俣毘賣を娶り、生む御子、
師木津日子玉手見命 一柱、天皇御年肆拾伍歲(45歳)、御陵衝田岡に在る也
師木津日子玉手見命、片鹽浮穴宮に坐し天下を治める也
此の天皇、河俣毘賣之兄、縣主波延之女 阿久斗比賣を娶り、生む御子
常根津日子伊呂泥命【自伊下三字以音】次、大倭日子鉏友命、次、師木津日子命
此の天皇之御子等 三柱を并せて之(この)中の大倭日子鉏友命者が天下を治める也
次、師木津日子命之子、二王坐し、
一子の孫者(は:短語)伊賀須知之稻置、那婆理之稻置 三野之稻置之祖
一子、和知都美命者(は:短語) 淡道之御井宮に坐す
故、此の王に二女有り、兄名蠅伊呂泥、亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也
天皇御年、肆拾玖歲(49歳)、御陵畝火山之美富登に在る也
大倭日子鉏友命、輕之境岡宮に坐し天下を治める也
此の天皇、師木縣主之祖 賦登麻和訶比賣命、亦名、飯日比賣命を娶り、生む御子、
御眞津日子訶惠志泥命【自訶下四字以音】次、多藝志比古命の二柱
故、御眞津日子訶惠志泥命者(は:短語)天下を治める也
次、當藝志比古命者(は:短語)、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖
天皇御年、肆拾伍歲(45歳)、御陵畝火山之眞名子谷上に在る也
御眞津日子訶惠志泥命、葛城掖上宮に坐し天下を治める也
此の天皇、尾張連之祖奧津余曾之妹 名余曾多本毘賣命を娶り、生む御子
天押帶日子命、次大倭帶日子國押 人命の二柱
故、弟帶日子國忍人命者(は:短語)天下を治める也
兄天押帶日子命者(は:短語)春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、
大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、
近淡海國造之祖也
天皇御年、玖拾參歲(93歳)、御陵掖上博多山上に在る也
天押帶日子命子孫
「乃爲將殺當藝志美美之時 神沼河耳命曰 其兄神八井耳命
那泥【此二字以音】汝命 持兵入而 殺當藝志美美 故持兵入以將殺之時
手足和那那岐弖【此五字以音】不得殺」の解読は、
「乃(すなわ)ち、將(まさに)當藝志美美を殺す之(この)時、
神沼河耳命曰(い)うと爲す」と、「其の兄神八井耳命、那泥【此二字以音】
汝命の持つ兵而(に)入り 當藝志美美を殺す」と、「故、持っている兵に入るを以て、
將(まさに)殺す之(この)時、手足を和那那岐弖【此五字以音】し殺不得(ころせず)」になります。
「乃(すなわ)ち〜當藝志美美を殺す之(この)時〜」、「其の〜 當藝志美美を殺す」、
「故〜將(まさに)殺す之(この)時、手足を和那那岐弖【此五字以音】し
殺不得(ころせず)」と三つの話があります。
1つ目と2つ目の文は、「殺す時」=「殺人前」、「殺す」=「殺人後」と解釈できますが、
3つ目の文は「殺す之(この)時」と「殺不得(ころせず)」があり、
2つ目の「殺す」=「殺人後」とは異なってしまい矛盾します。
また、1つ目と2つ目は、「當藝志美美」という人名がありますが、
3つ目の文には、「當藝志美美」という人名はありません。
ですので、3つ目の文が、そもそも、「當藝志美美」に関係する話なのかも不明です。
簡単に調べたところ、「わななきて」と読んで、
「戦慄」の意味として書いているサイトもありますが、本当でしょうか?
「和」:呉音:ワ、漢音:カ、唐音:オ
「那」:呉音:ナ、漢音:ダ、唐音:ノ
「岐」:呉音:ギ、漢音:キ
「弖」:て
上記により、呉音「わななぎて」、漢音「かだだきて」になりそうです。
調べても、やはり、「わななき」しか出てきませんでした。
話の流れ的にも、おかしい表現ではないとは思っています。
「事件」で、「故、天皇崩(崩御)後、其の庶兄の當藝志美美命は
娶其の嫡后伊須氣余理比賣を娶る之(この)時、
將(まさに)其の三弟は之(この)間(あいだ)而(に)謀り殺す」を取り上げました。
ここで、「其の三弟」について書きました。
そもそも、「天皇」とは書いていますが、天皇の名については、一度も出ていませんので、
考察するには、困ってしまいます。
〇〇を娶るという文でも、
名が無いので、「神倭伊波禮毘古命」では無いのではないか?と思っています。
なにより、この場面で初めて「當藝志美美命」が登場しているので、
本当に「其の三弟」=「日子八井命」、「神八井耳命」、「神沼河耳命」なのか、
疑問しかありません。
でも、「謀り殺す」とあるので、「其の三弟」は死んでいると解釈すると、
「神八井耳命」や「神沼河耳命」は、弔い合戦の様な状況だったのかも知れません。
この後の場面ですが、「故爾其弟神沼河耳命 乞取其兄所持之兵
入殺當藝志美美 故亦稱其御名 謂建沼河耳命」になり、この解読は、
「故爾(ゆえに)、其の弟神沼河耳命、其の兄が乞うて取る所で持つ之(この)兵、
當藝志美美を殺しに入る 故、亦、其の御名を稱(たた)えて、建沼河耳命と謂う」
になります。
この場面は、前回の範囲の「神沼河耳命のまとめ」でも考察していていますが、
今回、改めて見ると、少々おかしな箇所があるのが分かりました。
まず、「其弟神沼河耳命」とは書いていますが、前文は、
「故、持っている兵に入るを以て、將(まさに)殺す之(この)時、
手足を和那那岐弖【此五字以音】し殺不得(ころせず)」なので、
「兄弟」の話ではありません。
もし、これが、その前文である「其の兄神八井耳命、那泥【此二字以音】
汝命の持つ兵而(に)入り 當藝志美美を殺す」であれば、
「其の兄神八井耳命」があるので、話的には通じると思います。
しかし、その様な状況では無いのに、なぜ、「其の弟」なのか?
これは、この間に、別の文が挿入されていたのではないか?と思っています。
そして、「建沼河耳命」の存在ですが、「當藝志美美を殺しに入る故〜」とすると、
まだ、殺してもいないのに、「稱(たた)えて」はおかしいです。
その点を考えると、「故、亦、其の御名を稱(たた)えて、建沼河耳命と謂う」は、
別の文である可能性が高まります。
「建沼河耳命」の存在について、この後の場面で明かされます。
「爾神八井命 讓弟建沼河耳命曰」がその場面ですが、
なぜか、「神八井耳命」ではなく、「神八井命」とあり「耳」がありません。
これにより、「神八井命」の弟が「建沼河耳命」であるとなりそうですが、
問題は、「神八井命」と「建沼河耳命」が、誰の子なのかという事です。
普通に考えるならば、「神八井耳命」の子だと思いますが、
それであれば、「神八井耳命」の子が「神八井命」と「建沼河耳命」だと、
書いていても良さそうですが、どこにも書いていません。
これについては、検索しましたが、「神八井耳命」についてのみが表示されて、
重要な情報には、行き着きませんでした。
「凡此神倭伊波禮毘古天皇御年 壹佰參拾漆歲 御陵在畝火山之北方白檮尾上也」
にある「神倭伊波禮毘古天皇」の名が、最初で最後になります。
今回の一度のみしか、「神倭伊波禮毘古天皇」の名は登場していませんが、
何度か、「天皇」と書いているのがあります。
なぜ、他の「天(あま)の皇(おう)」の時の様に、書く事が出来ないのか、
疑問しかありません。
「天皇」を集めると、「以歌白於天皇曰」、「乃天皇見其媛女等而」、「以天皇之命」、
「天皇幸行其伊須氣余理比賣之許」、「天皇御歌曰」、「天皇崩後」の6箇所にあります。
「以歌白於天皇曰」や「天皇御歌曰」は、天皇の名が無くても良いですが、
他の箇所では、天皇の名を書くべきところもあります。
例えば、「天皇幸行其伊須氣余理比賣之許」や「乃天皇見其媛女等而」は、
天皇の名を書いておくのが良い気がします。
つまり、「神倭伊波禮毘古天皇」が「天皇職」を担っていたのは、本当だけど、
最初からとなると、疑問しかありません。
「神沼河耳命 坐葛城高岡宮 治天下也 此天皇 娶師木縣主之祖 河俣毘賣 生御子
師木津日子玉手見命 一柱天皇御年 肆拾伍歲 御陵在衝田岡也」の解読は、
「神沼河耳命、葛城高岡宮に坐し天下を治める也」と、
「此の天皇、師木縣主之祖 河俣毘賣を娶り、生む御子、
師木津日子玉手見命 一柱、天皇御年肆拾伍歲(45歳)、御陵衝田岡に在る也」
になります。
「葛城高岡宮」ですが、検索すると、「奈良」の「葛城」が出ますが、
調べると、九州にも「葛城」という地名が存在していました。
参照34のサイトには「肥前国三根郡葛城郷」が記載されています。
「平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,
伊勢本の訓は「加津良木」。」ともあり、古くから存在している様です。
もし、古代九州に「葛城高岡宮」が存在したと仮定すると、
近畿地方に「東遷」していない証拠になりそうです。
参照34:葛城氏 | 神話を科学する(古代史探訪)
櫟原北代比古神社
この間の神社を調べましたが、この「大倭日子鉏友命」の表記は見つかりませんでした。
「一子和知都美命者 坐淡道之御井宮 故此王有二女 兄名蠅伊呂泥
亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命 弟名蠅伊呂杼也」の解読は、
「一子、和知都美命者(は:短語) 淡道之御井宮に坐す」と
「故、此の王に二女有り、兄名蠅伊呂泥、亦の名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、
弟名蠅伊呂杼也」になります。
「故、此の王に二女有り」とは書いていますが、
「和知都美命」は、「命」であり、「王」ではありません。
また、「和知都美命」が「淡道之御井宮」で仕事をしているのも不思議です。
この様な、「宮」で仕事するのは、ここまで「天皇」以外にはいませんでした。
しかも、「和知都美命」は「天皇」になる人でもありません。
非常に不思議です。
ただ、次代の天皇である「大倭日子鉏友命」が幼少のために、
一時的に、政務を行っていたと考えれば納得できます。
あと、「此の王に二女有り」と書いておきながら、子の名が、
「兄名蠅伊呂泥」と「弟名蠅伊呂杼」という男性の名なのか疑問です。
ちなみに、「兄名蠅伊呂泥」の「亦の名」として書かれている
「意富夜麻登久邇阿禮比賣命」の名ですが、同一人物ではなく、
後に継承した人物だと思います。
ですが、なぜ、女性が男性の名を継承するのか分かりません。
何か、理由でもあったのでしょうか?
例えば、「性同一性障害」とかあったのならば、納得できます。
「次、師木津日子命之子、二王坐し、
一子の孫者(は:短語)伊賀須知之稻置、那婆理之稻置 三野之稻置之祖」と
「次、當藝志比古命者(は:短語)、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖」
にある、「稻置」という姓(かばね)について、考察します。
参照35のサイトの「改訂新版 世界大百科事典」の箇所に、
「《日本書紀》成務5年条に〈諸国に令(みことのり)して国郡に造長を立て,
県邑に稲置を置く〉という表現がみられ」とあります。
「山川 日本史小辞典 改訂新版」でも、同じ様な情報になっています。
「成務天皇」は第13代の天皇、
「師木津日子玉手見命」の「安寧天皇」は第3代なので、10代の開きがあります。
このため、「成務5年条」よりも10代前の「安寧」の頃が、
「稻置」の最初の可能性が高いです。
「神八井耳命」の子孫の姓(かばね)を見ても、
「稻置」の最初は「安寧」であると言えそうです。
一点、参照35のサイトの「改訂新版 世界大百科事典」と
「山川 日本史小辞典 改訂新版」にある「《隋書》東夷伝倭国条」については、
おかしいと思っています。
「《隋書》東夷伝倭国条の〈軍尼(くに)一百二十人有り,猶中国の牧宰のごとし,
八十戸一伊尼翼(冀)を置く,今の里長の如きなり,十伊尼翼一軍尼に属す〉」と、
「改訂新版 世界大百科事典」の箇所に載っています。
しかし、古代中国の「倭国伝」は、
「列島」ではなく、近場にいただろう「倭国」について、記載したものなので、
「倭国」=「列島」は考えを改めて欲しいと思っています。
参照35:稲置(イナキ)とは? 意味や使い方
「此天皇 娶尾張連之祖奧津余曾之妹 名余曾多本毘賣命 生御子 天押帶日子命
次大倭帶日子國押人命 二柱 故弟帶日子國忍人命者 治天下也」とありますが、
「帶日子國忍人命」とは誰でしょうか?
「大倭帶日子國押人命、葛城室之秋津嶋宮に坐し天下を治める也」と、
次の文で「大倭帶日子國押人命」と書いているので、書き間違いの可能性もありますが、
もし、「帶日子國忍人命」が存在したとしたら、誰なのでしょうか?
「大倭」が無いし、「押人」→「忍人」に変化しています。
考えられるのは、「大倭帶日子國押人命」の子くらいですが、
子の中に名はありません。
色々と調べても、良く分かりませんでした。
「大春日朝臣」関連の「姓(かばね)」のうち、主なものを記載しています。
87 左京 皇別 大春日朝臣 朝臣 出自孝昭天皇皇子天帯彦国押人命也
仲臣令家重千金。委糟為堵。于時大鷦鷯天皇[謚仁徳。]臨幸其家。詔号糟垣臣。
後改為春日臣。桓武天皇延暦廿年。賜大春日朝臣姓
94 左京 皇別 吉田連 連 大春日朝臣同祖
観松彦香殖稲天皇[謚孝昭。]皇子
天帯彦国押人命四世孫彦国葺命之後也
昔磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇御代。任那国奏曰。臣国東北有三己地。
[上己。中己。下己。]地方三百里。土地人民亦富饒。与新羅国相争。彼此不能摂治。
兵戈相尋。民不聊生。臣請将軍令治此地。即為貴国之部也。天皇大悦。勅群卿。
令奏応遣之人。卿等奏曰。彦国葺命孫塩垂津彦命。頭上有贅三岐如松樹。[因号松樹君。]
其長五尺。力過衆人。性亦勇悍也。天皇令塩垂津彦命遣。奉勅而鎮守。彼俗称宰為吉。
故謂其苗裔之姓。為吉氏。男従五位下知須等。家居奈良京田村里間。
仍天璽国押開豊桜彦天皇[謚聖武。]神亀元年。賜吉田連姓。[吉本姓。田取居地名也。]
今上弘仁二年。改賜宿祢姓也
96 左京 皇別 丈部 天足彦国押人命孫比古意祁豆命之後也
152 右京 皇別 栗田朝臣 朝臣 大春日朝臣同祖 天足彦国忍人命之後也
154 右京 皇別 真野臣 臣 天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也
男大口納命。男難波宿祢。男大矢田宿祢。従気長足姫皇尊[謚神功。]征伐新羅。凱旋之日。
便留為鎮守将軍。于時娶彼国王猶榻之女。生二男。二男兄佐久命。次武義命。
佐久命九世孫和珥部臣鳥。努大肆忍勝等。居住近江国志賀郡真野村。庚寅年負真野臣姓也
155 右京 皇別 和迩部 天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也
186 山城国 皇別 小野朝臣 朝臣 孝昭天皇皇子天足彦国押人命之後也
187 山城国 皇別 粟田朝臣 朝臣 天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也
189 山城国 皇別 和迩部 小野朝臣同祖 天足彦国押人命六世孫
米餅搗大使主命之後
一本。彦姥津命三世孫難波宿祢之後也
「大倭帶日子國押 人命」の事だと思いますが、「大倭」ではなく「天」になっています。
ここまで来ると、別人なのが分かります。
また、この「天帯彦国押人命」は、日本書紀には載っていませんでした。
こちらは、日本書紀に載っていますが、「大倭帶日子國押 人命」が正規の表記なので、
「大倭」→「天」と「帶」→「足」が変化しています。
ちなみに「天押帶日子命」の子孫が「春日臣」ですが、
「大春日朝臣」とある事から、「春日臣」とは違う一族の可能性がありそうです。
そもそも、「天帯彦国押人命」と「天足彦国押人命」は、
古事記には載っていないので、「孝昭天皇皇子」というのも怪しいと思っています。
そうなると、この「孝昭天皇」は日本書紀の「觀松彥香殖稻天皇」だと思いますが、
その時に繋がるのは、「天足彦国押人命」だけで、「天帯彦国押人命」は繋がりません。
「天帯彦国押人命」の情報源がどこなのか気になります。
それから、「天押帶日子命」の子孫は、「春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、
壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、
壹師君、近淡海國造之祖也」なのに、「吉田連」、「丈部」、「栗田朝臣」、「真野臣」、
「和迩部」、「小野朝臣」の6つの子孫が入っていません。
「大春日朝臣」が入っていない事を考えると、
「大春日」=「春日臣」ではないと言えそうです。
ちなみに、日本書紀で「天足彥國押人命、此和珥臣等始祖也。」と書いていますが、
「天押帶日子命」の子孫の様に多くを書いていませんし、なにより、
「和珥臣」は「天押帶日子命」の子孫には無いので、
別系統であるのは間違いないと思います。
さすがに「帶」→「足」は、無理があると思います。
「帶」を「たらし」と読む語源ですが、
「帶 たらし 語源」で検索すると「AI による概要」には、
「『古事記』ではこの状態を「多羅斯(たらし)」と表記しており、
帯が「紐を垂らした状態」に由来することが示唆されています。」と書いていますが、
古事記の原文を調べても書いていませんでした。
これは、日本書紀にも書いていないので、どこの情報なのか?と思ってしまいます。
ただ、「帶」が「たらし」と読むのは理解しましたが、
「足」が「たらし」と読むのはどうなんでしょうか?
そこで「足 たらし 語源」で検索すると、「AI による概要」には、
「「足」と「たらし」の語源は、それぞれ「物の本体に継ぎ足すもの」という
意味から転じて「足りる」という意味になったことと、「紐の端を垂らす」という
意味の動詞から来ている可能性が高いです。」とあります。
「帶」=「たらし」では、「示唆されています。」と、ある程度の確実性が見えましたが、
「足」=「たらし」では、「可能性が高いです。」と書き、
「可能性」の問題になっています。
これらから、元々「帶」=「たらし」が正しく、「足」=「たらし」は、
「帶」が使えないから「足」という漢字を用いたのではないか?と思っています。