最終更新日 2025/10/06

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 第七章 神武天皇から開化天皇まで

故爾邇藝速日命參赴 白於天神御子 聞天神御子天降坐 故追參降來 卽獻天津瑞以仕奉也
故邇藝速日命 娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子 宇摩志麻遲命 此者物部連 穗積臣 婇臣祖也

故如此言向平和荒夫琉神等【夫琉二字以音】退撥不伏人等 而坐畝火之白檮原宮 治天下也

故坐日向時 娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣【自阿以下五字以音】生子 多藝志美美命
次岐須美美命 二柱坐也 然更求爲大后之美人時 大久米命曰 此間有媛女 是謂神御子
其所以謂神御子者 三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣 其容姿麗美 故美和之大物主神見感
而其美人爲大便之時 化丹 塗矢 自其爲大便之溝流下 突其美人之富登【此二字以音 下效此】
爾其美人驚 而立走伊須須岐伎此【五字以音】乃將來其矢 置於床邊 忽成麗壯夫
卽娶其美人生子 名謂富登多多良伊須須岐比賣命 亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣
是者惡其富登云 事後改名者也 故是以謂神御子也

於是七媛女 遊行於高佐士野【佐士二字以音】伊須氣余理比賣在其中 爾大久米命
見其伊須氣余理比賣而 以歌白於天皇曰

夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟

爾伊須氣余理比賣者 立其媛女等之前 乃天皇見其媛女等
而御心知伊須氣余理比賣立於最前 以歌答曰

加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟

爾大久米命 以天皇之命 詔其伊須氣余理比賣之時 見其大久米命黥利目而 思奇歌曰

阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

爾大久米命 答歌曰

袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米

故其孃子 白之 仕奉也 於是其伊須氣余理比賣命之家 在狹井河之上
天皇幸行其伊須氣余理比賣之許 一宿御寢坐也 其河謂佐韋河由者 於其 河邊山由理草多在
故取其山由理草之名 號佐韋河也 山由理草之本名云佐韋也 後其伊須氣余理比賣
參入宮內之時 天皇御歌曰

阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯

然而阿禮坐之御子名 日子八井命 次神八井耳命 次神沼河耳命 三柱

故天皇崩後 其庶兄當藝志美美命 娶其嫡后伊須氣余理比賣之時 將殺其三弟而謀之間
其御祖伊須氣余理比賣患苦 而以歌令知其御子等 歌曰

佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須

又歌曰

宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流
解読

故爾(ゆえに)邇藝速日命が赴(おもむ)いて參り、天神御子に於いて白(もう)す

天神御子は聞き、天から降りて坐す

故、追って參り降りて来る

卽(すなわち)、天津を獻(たてまつり)、瑞を以て仕奉(つかえたてまつる)也

故(ゆえ)、邇藝速日命は登美毘古之妹・登美夜毘賣を娶り、生子 宇摩志麻遲命

此れ者(は:短語)、物部連・穗積臣・婇臣の祖也


故、此の言向の如くに、平和荒夫琉神等【夫琉二字以音】、
人等を不伏(ふせず)に退き撥(おさめる)

而(すなわち)、畝火之白檮原宮に坐し、天下を治める也


故、日向に坐す時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣【自阿以下五字以音】を娶り、
生子 多藝志美美命、次、岐須美美命 二柱坐也

然し更に、大后之美人を求めて爲す時、大久米命曰く

此の間に媛女有り

是(これ)、神御子と謂う

其の所を以て神御子と謂う者(は:短語)、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、
其の容姿麗美故、美和之大物主神が感じて見る

而(すなわち)、其の美人大便を爲す之(この)時、丹に化けて矢に塗る

其の大便を爲した之(これ)溝自(より)下に流す

其の美人之富登【此二字以音 下效此】を突く

爾(なんじ)其の美人が驚く

而(すなわち)伊須須岐伎【此五字以音】が走り立つ

乃(すなわ)ち、將(まさに)其の矢が来て、床の邊(あたり)に置くに於いて、
忽(たちまち)麗しき壯夫(おとこ)に成る

卽(すなわち)其の美人を娶り、生子 名富登多多良伊須須岐比賣命と謂う

亦の名、比賣多多良伊須氣余理比賣と謂う

是(これ)者(は:短語)其の富登を惡むと云う

改名者(は:短語)事後也

故、是(これ)を以て神御子と謂う也


是於(これにおいて)七媛女 高佐士野【佐士二字以音】に於いて遊びに行く

伊須氣余理比賣在る其の中、
爾(なんじ)大久米命、其の伊須氣余理比賣を見る

而(すなわち)、歌を以て天皇に於いて白(もう)して曰く

夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟

やまとの たかさじのを ななゆく をとめども たれをしまかむ

爾(なんじ)伊須氣余理比賣者(は:短語)、其の媛女等之前に立つ

乃(すなわ)ち、天皇其の媛女等を見る

而(すなわち)、御心をる知伊須氣余理比賣の最前に於いて立ち、歌を以て答えて曰く

加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟

かつがつも いやさきだてる えをしまかむ

爾(なんじ)大久米命、天皇之命を以て、
其の伊須氣余理比賣に詔(みことのり)之(この)時、
其の大久米命を見て、利(するどい?)黥(いれずみ)を目而(に)奇しく思い歌を曰く

阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

あめつつ ちどりましとと などさけるとめ

爾(なんじ)大久米命、歌で答えて曰く

袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米

をとめに ただにあはむと わかさけるとめ



故、其の孃子(むすめこ)之(これ)白して仕奉(つかえたてまつる)也

是於(これにおいて)、其の伊須氣余理比賣命之家に在る狹井河之上、天皇幸行す

其の伊須氣余理比賣之(これ)一宿を許し、御寢で坐す也

其の河を佐韋河由と謂う者(は:短語)、其れに於いて 河邊の山由理草多く在る

故、其の山由理草を取り、之(これ)の名佐韋河と號(呼び名)する也

山由理草之本名、佐韋と云う也

後、其の伊須氣余理比賣、宮內に參り入る之(この)時、天皇御歌曰く

阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯

あしはらの しけしきをやに すがたたみ いやさやしきて わがふたりねし

然し而(すなわち)阿禮に坐す之(この)御子の名
日子八井命、次、神八井耳命、次、神沼河耳命の三柱

故、天皇崩(崩御)後、
其庶兄の當藝志美美命は娶其の嫡后伊須氣余理比賣を娶る之(この)時、
將(まさに)其の三弟は之(この)間(あいだ)而(に)謀り殺す

其の御祖伊須氣余理比賣は苦しさを患う

而(すなわち) 歌を以て、其の御子等を知るを令(うながし)歌曰く

佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須

さゐかはよ くもたちわたり うねびやま このはさやげぬ かぜふかむとす

又歌曰

宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流

うねびやま ひるはくもとゐ ゆふされば かぜふかむとぞ このはさやげる

解説

10

事件


事件

「故天皇崩後 其庶兄當藝志美美命 娶其嫡后伊須氣余理比賣之時
將殺其三弟而謀之間 其御祖伊須氣余理比賣患苦 而以歌令知其御子等 歌曰」
の解読は、「故、天皇崩(崩御)後、其庶兄の當藝志美美命は
娶其の嫡后伊須氣余理比賣を娶る之(この)時、
將(まさに)其の三弟は之(この)間(あいだ)而(に)謀り殺す」と
「其の御祖伊須氣余理比賣は苦しさを患う」と
「而(すなわち) 歌を以て、其の御子等を知るを令(うながし)歌曰く」になります。

當藝志美美命

「其庶兄當藝志美美命」と書いていますが、誰の「庶兄」でしょうか?

「天皇崩後」とあるので、「天皇」の「庶兄」だと思われますが、
今まで、登場していません。

「阿多之小椅君妹・名阿比良比賣生子 多藝志美美命、次岐須美美命」の
「多藝志美美命」と勘違いしている人が多いです。

「多藝志美美命」は「たぎしみみ」と読めますが、
「當藝志美美命」の「當」は万葉仮名でも「た」とは読めないので、
同一人物と考えるのは間違いだと思います。

一部の万葉仮名の表の「た」の場所に「当」が入っているサイトもありますが、
本来の漢字の「當」とは書いていないので、違う可能性があります。

「多藝志美美命」と「當藝志美美命」は、「藝志美美」で統一されているので、
親戚関係である事は確かだと思います。

ただ、「多藝志美美命」の直系、つまり、子や孫だとすると、
古事記には書いていませんので、多分に違うかなと思っています。

あと、文で気になるのが、「天皇崩(崩御)後、其庶兄の當藝志美美命」と、
「其の三弟」になります。

「其の三弟」は、「日子八井命」、「神八井耳命」、「神沼河耳命」と思われがちですが、
本当にそうなのでしょうか?

では、なぜ、名を書かなかったのでしょうか?

第六章もそうでしたが、「其の」の数が多いです。

その一つ一つに、「其の」の前提条件が書かれた文があると思っています。

つまり、この「其の三弟」にも名が書かれていたと思われます。

では、なぜ、その部分を合わせて記載しなかったのか?

という事は、「其の三弟」=「日子八井命」、「神八井耳命」、「神沼河耳命」
では無かった可能性も十分にあると思っています。

古事記編纂者達は、
もしかすると勘違いさせようと、この様な文構成にしたのでしょうか?

こればかりは、本人しか知らないとなりそうです。

ちなみに、「謀り殺す」と文ではありますが、
実際に「神沼河耳命」は「天下を治める」役割を担っているので、
「殺されて」はいないので、やはり、別の時間軸の話では無いか?と思っています。

伊須氣余理比賣

「嫡后伊須氣余理比賣」と「御祖伊須氣余理比賣」で登場します。

この「御祖」とは、子から見てというのはおかしいので、
孫もしくは曾孫からの「御祖」では無いかと思います。

そもそも、「伊須氣余理比賣」自体、
「神倭伊波禮毘古命」に娶られたという記事がないので、
誰の「后」だったのか、疑問しかありません。

それに。明らかに「神倭伊波禮毘古命」の登場回数が少ないと思います。

「天下を治める」場面も「故如此言向平和荒夫琉神等【夫琉二字以音】退撥不伏人等而
坐畝火之白檮原宮 治天下也」という風に「神倭伊波禮毘古命」の名がありません。

「天皇」という言葉さえもありません。

この場面の後に、
「凡此神倭伊波禮毘古天皇御年 壹佰參拾漆歲 御陵在畝火山之北方白檮尾上也」
とありますが、「凡」の漢字が引っかかっています。

なぜ、「凡」の漢字が一番前にあるのでしょうか?

本当であれば、必要が無いものです。

これらから、
「嫡后伊須氣余理比賣」と「御祖伊須氣余理比賣」が同一人物かも不明ですし、
「伊須氣余理比賣」が「神倭伊波禮毘古」と結婚したかも不明となります。

当然、「日子八井命」、「神八井耳命」、「神沼河耳命」も、
その場面に「天皇御歌曰」とあるだけで、「天皇の名」も書いていないので、
本当に「神倭伊波禮毘古」と「伊須氣余理比賣」の子かどうかも不明となります。

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