日本書紀の紀年法
色々と調べていると、「紀元前660年」に「神武天皇(仮)」が即位したのは、
間違いではないか?という考えが多くあり、諸説を見ると納得出来ます。
そこで、現在の定説となっている事を確認します。
日本では、推古天皇9年(601年)が「辛酉(かのととり)の年」にあたることから、
1260年ごとに大きな変革があるとする「辛酉革命説」が唱えられ、
紀元前660年の神武天皇即位を逆算する根拠として用いられました。これは後に「日本書紀」の紀年法にも影響を与えたとされます。
上記は、参照1のPDFにも書かれている「讖緯説」を検索したら、
「AI による概要」の「日本への影響」に出てきました。
参照1のPDFでは、「しかし、推古 9 年はとくに革命のあった年ではないことから、
干支 1 運下がった斉明 7 年ではないかともいわれます
(661 年:斉明が百済救済のため遠征の途上、九州で亡くなった)。
勿論、一蔀は 1320 年だとされています。」とも書かれています。
結局のところ、「紀元前660年」が後世に作られたというのは正しいようです。
そうなると、元々、日本書紀の情報源には、
「暦(こよみ)」は書き込まれていなかった事になりそうです。
ただ、「紀元前660年2月11日」に即位した事になっていますが、
「辛酉年春正月庚辰朔」とあり、「春正月」は普通に考えれば、
「1月」の事を指すと思います。
なぜ、この情報を見て、「2月11日」にしようと決めたのか疑問です。
この辺りの、「2月11日」の事は、参照2のサイトが詳しい様です。
参照2のサイトを見ると、都合が良かったから、「2月11日」に決めたように見えます。
『日本書紀』では踰年称元法を用いており、ほとんどの場合、
天皇の即位の翌年を元年としている。「踰年称元法」:
検索すると、「踰年称元法は、中国の前漢の武帝が、
即位の翌年を元年としたことに始まります。」と「AI による概要」に出ます。「前漢武帝 踰年称元法」で検索すると、「AI による概要」に、
「前漢の武帝が即位の翌年にあたる紀元前140年を「建元元年」と
したことが、中国最初の元号(踰年称元法、ようねんしょうげんほう)の
始まりとされています。」と出ます。Wiki
上記の「踰年称元法」が使われている事が確定ならば、日本書紀の「神武天皇(仮)」は、
「紀元前140年」以降の人物となりますが情報がありません。
藤貞幹は『衝口発』で、神武天皇元年辛酉は周の恵王17年
Wiki
(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓との年紀に
符合しないことを述べた。
上記の説ですが、どこから、「600年後」という数字が出てきたのか、
内容を見ても、根拠については書いている様には思えませんでした。
ただ、「踰年称元法」が「紀元前140年」以降で、こちらが「紀元前60年」なので、
あながち間違っているとは言えません。
神武天皇の即位の年は辛酉年とされるが、
中国で干支紀年法が確立したのが太初暦が採用された紀元前104年あたりとされる。それ以 前には木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく
太歳紀年法が用いられており、
11.862年である木星の公転周期から約86年にひとつずれる「超辰」が行われた。こうした中国での干支紀年法の成立の歴史を鑑みるに、
Wiki
紀元前660年相当の時代を干支紀年法で 記載しているというのはオーパーツと言える。
上記の「干支紀年法」、「干支紀年法 紀元前104年 確立」で検索すると、
「AI による概要」には、「干支紀年法が紀元前104年に確立したという事実は、
中国の前漢時代に「超辰(ちょうしん)」という方法が
使われていた時期には該当しません。」と出ます。
「太初暦」の初年が「紀元前104年」なのは、正しい様ですが、
これが、「確立」に入るのかは、難しい判断になります。
現段階では、検索の「AI による概要」によれば、
「確立」とはみなされてはいないようです。
実際に、大改革したのが、「後漢の建武26年(西暦50年)」で、
「木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなり、
木星の運行とは関係なく、60年周期で用いられる」事をしたのが、「西暦50年」なので、
大きさで言えば、こちらが「確立」に相応しいのかも知れません。
あと、本文にも書きましたが、参照3のサイトには、「メトン周期」について書いていて、
これが「紀元前433年」に発明した様なので、「メトン周期」が列島に流れ着いたとして、
最低でも3〜400年はかかると思うので、先程から考察している「紀元前140年」、
「紀元前60年」、「紀元前104年」とさほど時間の差は無いと思います。
古事記と日本書紀の時代差ですが、最低200年、最高500年では無いかと考えています。
古事記に関しては、「弥生の小氷期」の事を書いたと思われる場面もあり、
「神武天皇(仮)」が「紀元前660年」に即位したとしても、何ら不思議ではありません。
問題としては、「一字一音」→「一字二音」に変化したのか?です。
色々と言葉を変えて調べてみましたが、はっきりとした答えは見つかりませんでした。
ですが、「伊邪本和氣命」の様に、
古事記では主に「一字一音」を基本に作られていますが、
日本書紀では、「彥(ひこ)」を代表とする「一字二音」が基本となっています。
古事記と日本書紀を比べると、明らかに、古事記の内容を日本書紀が表記を変えて、
写す様な内容になっています。
つまりは、古事記の情報なくして、日本書紀は完成しなかったと言えます。
なので、古事記の情報が一番古く、日本書紀の内容が新しい部類だと思われます。
「一字一音」→「一字二音」に変わるには、長い年月が必要だと思うので、
最低200年、最高500年の間を取って、「300年〜400年」の差があったのかも知れません。
これぐらいの差があれば、仮に300年前だとしても、
古い情報は、新しい表記に移り変わっても不思議では無いと思います。
参照1:神武天皇即位 紀元前660年はどのように決められたか
参照2:神武天皇が即位したのは、本当に「2月11日」 ...
参照3:神武天皇即位紀元
多くは、「神倭伊波禮毘古命」が「天(あま)の皇(おう)」だと思っているでしょうが、
実は、冒頭の「4段落」の内、三箇所に登場しただけで、
「神倭伊波禮毘古天皇」として、亡くなった時の場面まで登場していません。
これには、考察をしていてびっくりしました。
そこで、詳しく考えていこうと思います。
滞在した「宮」が多く、「足一騰宮」、「竺紫之岡田宮」、「阿岐國之多祁理宮」、
「吉備之高嶋宮」の四つですが、
第一段落と第二段落に集まっています。
この後には、「畝火之白檮原宮」があるくらいです。
しかも、「即位」した形跡もありません。
「神倭伊波禮毘古天皇」にあるように、「天(あま)の皇(おう)」になったのであれば、
この表記で書いていても良いのですが、その様な情報はありません。
一つ、誰かが「天(あま)の皇(おう)」に就いたと思われる情報が、
「故如此言向平和荒夫琉神等【夫琉二字以音】退撥不伏人等而
坐畝火之白檮原宮 治天下也」とありますが、ここには人名が存在していません。
これでは、だれが「天(あま)の皇(おう)」に就任したのか分かりません。
あと、「作足一騰宮」とあり、「足一騰宮」を作ったのに、ここを使わずに、
「竺紫之岡田宮」を使うのは違うと思います。
「自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐」が「竺紫之岡田宮」の全文ですが、
なぜ、「足一騰宮」を使っていないのに、
わざわざ、遷移する必要があるのか?と考えています。
そこで、思うのは、もしかすると、
「宮」毎に住んだ人物が異なるのでは無いか?という事です。
そうなると、「作足一騰宮」、「於竺紫之岡田宮一年坐」、「於阿岐國之多祁理宮七年坐」、
「於吉備之高嶋宮八年坐」は、
「神倭伊波禮毘古命」ではない人物が使っていたとなります。
「作足一騰宮」が一人目、「於竺紫之岡田宮一年坐」が二人目、
「於阿岐國之多祁理宮七年坐」が三人目、「於吉備之高嶋宮八年坐」が四人目と、
短い期間に、「神倭伊波禮毘古命」を三人が継承した事になりそうです。
そして、「〜坐畝火之白檮原宮 治天下也」を五人目とすれば、
仮に「神倭伊波禮毘古命」を四人が継承していた場合、
亡くなった時の年齢が「137歳」なので、これを単純に5で割ると、
「27.4」という数字がでます。
もちろん、これは、推測でしかありませんが、「平均27.4歳」であれば、
縄文〜弥生の時期当時の平均年齢は、「30歳」と言われているので、
「平均27.4歳」はありえない数字では無いと思っています。
「故號其水門謂男水門也 陵卽在紀國之竈山也」も気になっていて、
誰かが亡くなったという記事が無いのに、なぜ、この記事があるのでしょうか?
「到紀國男之水門而詔 負賤奴之手乎死」という記事もありますが、
これは、「賤奴」なので、「陵」という名は使わないと思います。
もしかすると、この「賤奴」は、高位の人間であったが、
何らかの問題により失脚し、最終的に「賤奴」に堕ちたという事なのでしょうか?
それであれば、書かなければ分かりません。
他の「天(あま)の皇(おう)」の場合、「御陵」とありますので、
「御」は無いですが、それなりの地位にいる人物なのは分かります。
この「陵」は、もしかすると、「神倭伊波禮毘古命」を継承した人物のかも知れません。
一人分の墓しかありませんが、ここまでの継承は一人だけなのでしょうか?
それとも、先程考えたように、
初代「神倭伊波禮毘古命」から五代「神倭伊波禮毘古命」までの
四人も継承していたのでしょうか?
疑問しか残りません。
「次若御毛沼命 亦名豐御毛沼命 亦名神倭伊波禮毘古命」と第六章の最後にありましたが、
第七章で「神倭伊波禮毘古命」が使われている事を考えて、
やはり、別人だったと思いました。
普通であれば、「亦の名」ではなく、本名を使うはずだからです。
「豐御毛沼命」も別人だと思います。
本文でも書きましたが、第七章に登場する地名は、
今まで、日本書紀にかかれている地名と同じだと思われてきました。
しかし、検索すると、
複数が「古代九州」でも存在したのではないか?と思えてきました。
「熊本県熊本市南区城南町吉野
(壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説 大矢野栄次著より)」
※現在は「熊本県熊本市南区城南町今吉野」の様です。
「糸島半島西部の旧加布里湾訶夫羅前」
「葛城高岡宮」→「肥前国三根郡葛城郷」
調べてみると「肥前國風土記」では、
「物部郷、漢部郷、米多郷、三根郷、船帆郷、蒲田郷、宮處郷」とあり、
「續郡書類従巻第九百七十二」では、上記の「米多郷」と「三根郷」の間に、
「神埼郷」がある以外に変化はありません。
これだと、「葛城郷」が無いわけですが、
参照4のサイトには、違う情報源が書かれています。
参照4のサイトに、「本和名類聚抄」に「三根郡葛木郷」があると言うので探してみたら、
「三根郡葛木[加都良木]」とありました。
しかし、「葛城」ではなく「葛木」で少々異なります。
「葛木」があるのならば、「葛城」も古代には存在していたのかも知れません。
また、「御眞津日子訶惠志泥命」の「葛城掖上宮」、
「大倭帶日子國押人命」「葛城室之秋津嶋宮」も同じく「葛城」なので、
近場に存在していたのかも知れません。
「若倭根子日子大毘毘命」の「春日之伊邪河宮」ですが、
色々と調べて見ると、「福岡県春日市」と「熊本市西区春日村」がある事が分かりました。
「福岡県春日市」は「市」なので、その時々で名が変わるので、信用できませんが、
「村」の名であれば、結構昔から残っていると思います。
「熊本市西区(春日村)」は、現在、「熊本市」に吸収されていますが、
元々、「春日村」として独立していた様なので、
こちらに「春日之伊邪河宮」があったとしても不思議ではありません。
「伊勢船木直」、「伊勢飯高君」、「伊勢之品遲部君」、「伊勢之佐那造」にある「伊勢」は、
今まで、「三重県」の「伊勢志摩」の事かと思っていましたが、「吉野」や「葛城」など、
古代九州に存在していた可能性があるのだから、
「伊勢」も古代九州に存在したのではないか?と思いました。
そこで、見つかったのが、参照5と参照6のサイトで、
参照5のサイトでは、「奈良の「宇陀」ではなく糸島なる「宇田」」の最後の方に、
「加布里湾の西部の糸島市二丈に伊勢ヶ浦・伊勢田〜」とあります。
また、参照6のサイトでは、「万葉歌に残る七一二年の隼人討伐戦」の最後の方に、
「筑紫怡土平野の西部の加布里湾かぶりわんには「伊勢(伊勢が浦・伊勢田など)」
があり〜」とあります。
これらにより、やはり、「伊勢」の名がある「姓(かばね)」は
古代九州発祥だったのでは?と思っています。
「近淡海國造」、「近淡海之御上祝」、「近淡海蚊野之別」、「近淡海之安直」に
ある「近淡海」は、今まで、「滋賀県」や「琵琶湖」を指すと言われてきました。
しかし、「琵琶湖」は、古き時代より、「海」に繋がった事がなく、
確かに大きいですが、
本当に当時の人達は「琵琶湖」=「近淡海」と思っていたのでしょうか?
これについては、以前に「琵琶湖」が古来より「海」で無いのであれば、
「近淡海」はどこを指すのか?という話を書きました。
その時には、「近淡海」は「現博多湾」と書いたと思います。
その理由として、「現博多湾」近郊に「太宰府」がある事から、
近域に今までも、「宮」を築いて来ただろうと思っての事です。
「現博多湾」と「太宰府」までは、現在では遠いですが、
当時は「船」で行き来していたので、気にならない可能性があります。
なにより、現代の様にせかせかした生活はしていないでしょうし。
参照7のサイトに、「蘇我」関連の名の地図が載っています。
「平群」、「曽我」、「額田」、「能解」、「田部」、「早良」、「毘伊」の名が載っていますが、
「曽我」=「蘇我」なのかは不明です。
また、参照8のサイトのWikiでは、下記の様に書きます。
『和名類聚抄』によれば、
Wiki
毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、
能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、
額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、
早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、
平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、
田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、
曽我の7郷があったと記述される。
ここでも「蘇我」ではなく「曽我」とあります。
あと、他の名を調べていたら、どうも、表記が異なるようです。
参照8:早良郡
毘伊
「毘伊 地名 古代九州 紀元前」で検索すると、参照9のサイトを見つけました。
そのサイトには、「比伊郷:毘伊郷とも書いた。【毘伊郷(古代)】 平安期に見える郷名。
【比伊郷(中世)】 鎌倉期~戦国期に見える郷名。」とあります。
そして、もう少し、詳しい情報を探すと、参照10のサイトを見つけました。
「和名抄」にみえる早良さわら郡伊ひ郷を継承したとみられる中世の郷。
比井郷・樋郷とも書く。
「続風土記」は樋井ひい川流域の「樋井郷」を鳥飼とりかい、
樫原かしはら(柏原、現南区)・檜原ひばる(現同上)、
東油山ひがしあぶらやま・堤つつみ・片江かたえ・長尾ながお・
田島たしま(現城南区)、麁原そはら・荒江あらえ(現早良区)
の一〇ヵ村にあたるとしており、中世の郷域は現在の中央区西部から南部、
城南じようなん区の中部・南部、南区の南西部にあたるか。嘉禄二年(一二二六)五月三日の
僧栄昌田地売券(青柳家文書/鎌倉遺文五)によると、
売却された飯盛いい もり下宮(現西区)の常灯田二町の在所として
「早良郡内比伊郷」がみえ、この免田は栄昌の私領であった。正応元年(一二八八)一〇月 三日の
コトバンク
蒙古合戦勲功賞配分状(入来院文書・禰寝文書・入来院武光文書/鎌倉遺文二二)
では、当郷地頭職が弘安四年(一二八一)のモンゴル襲来の際の恩賞地となっている。
「毘伊」=「比伊郷」なのかも不明ですし、
「樋郷」や「樋井郷」は単に「びい」もしくは「ひい」と読むだけで、
この情報だけでは、信用は出来ません。
参照9:KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7214021
参照10:比伊郷(ひいごう)とは? 意味や使い方
能解
詳しい情報はありませんでした。
額田
詳しい情報はありませんでした。
早良
ところで「早良」の地名の基となった「麁原」は、
「欷良(そうら)」 からきたのではないか、と思う。欷良は韓国慶尚南道梁山の旧名である。
梁山は金海の北東二十キロ、洛東江の東岸に所在する。
『 日本書紀 』には「 草羅 」「 匝羅 」と記されている……。
三家連豊継が観世音寺に奴婢を施入したとき、立券文の証人になった早良勝足嶋は、
勝姓であり、渡来氏族の秦氏の同族と考えられる。早良勝は擬少領、すなわち早良郡の郡司の家柄であった。
仮説であるが、加羅〈加耶〉 の欷良から集団で筑前に渡来し、
その定住地が故国の「 欷良 」にちなんで「そはら」と呼ばれたのではないか。
「麁原」の文字は後になって当てられたと思う。
この渡来集団の首領が早良勝氏の祖である。
早良勝氏は早良地区の開発者とみるべきであろう。
ともあれ欷良 → 麁原 → 早良への地名の推移の背景に、
加羅〈加耶〉・新羅文化をもつ早良勝集団の筑紫渡来の事実がうかがえると思う。
上記の事により、「欷良」について調べてみました。
AI による概要
「欷良」という言葉自体に一般的な意味は見つかりませんでしたが、
「欷」(き)は声を押し殺して泣く様子を表す漢字で、
「欷歔(ききょ)」はすすり泣くことを意味します。また、福岡市早良区の「早良」は「さわら」と読み、
「早良臣(さわらのおみ)」や「さわらぐ(乾燥する)」に由来する説があります。「欷」(き)について
漢字の「欷」は、声を抑えて泣く、すすり泣く様子を表します。
「欷歔(ききょ)」は、声を殺してすすり泣くことを意味する言葉です。
「早良」について
「早良(さわら)」は、福岡市の「早良区」にみられる地名です。
由来には、古くこの地に縁のあった「早良臣(さわらのおみ)」にちなむ説や、
周辺の気候が「さわらぐ(乾燥する)」ことから転じたという説があります。もし「欷良」という言葉が特定の文脈や固有名詞を指しているようであれば、
より詳細な情報を提供できる可能性があります。
音読みでは「呉音:ケ、漢音:キ」、訓読みでは「なげ-く、すすりな-く」であり、
上記には「き」と書いていますが、それは「漢音」での事で、
時代によって変化したのかも知れません
また、「万葉仮名」を探しましたが、見つかりませんでした。
この様に、「欷良」を「そうら」と読むのは、間違っていると思います。
あと、「麁原」を調べると、
「AI による概要」に「「麁原」は通常「祖原(そはら)」と表記され〜」とあります。
こちらも、「麁原」=「祖原」とするのは、違うかなと思います。
苗字があったり、「元寇古戦場」だったりするので、
「麁原」が存在したのは確かだと思います。
ただ、「元寇古戦場」の地域のみが「麁原」で、
「祖原山」近域が「祖原」なのでは無いか?と思っています。
「蒙古襲来絵詞」にも「麁原」と書かれている様なので、
やはり、小さい一部の地域だったのだと思います。
最終的に、「麁原」と「祖原」が、「そはら」と呼んでいたので、
同じだと思い、「祖原」が「麁原」を吸収したのだと思っています。
参照11:百道浜と早良王国 / 西海道古代史の迷路
平群
詳しい情報はありませんでした。
田部
「田部今朝麿」という人物がいるようですが、関連があるのか分かりませんでした。
「櫻井 地名 古代九州 紀元前」で検索すると、参照12のサイトがあり見ると、
「福岡県糸島郡志摩町桜井村」と「熊本県玉名市桜井村」とあるようです。
しかし、「福岡県糸島郡志摩町桜井村」は、
Wikiに「1889年 - 町村制が施行され、同村が誕生する」とあり、
古来より存在していたのかは不明です。
また、「熊本県玉名市桜井村」も、「熊本県鹿本郡桜井村」と少々異なりますが、
「1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により山本郡舞尾村、滴水村、下滴水村、
平野村、荻迫村、投刀塚村、鐙田村が合併し発足。」とあり、
こちらも古来から存在していたかは不明です。
参照12のサイトには「玉名市伊倉南方」とも書いていますが、
「1889年4月1日 - 伊倉北方村、伊倉南方村、宮原村、片諏訪村、横田村が合併し
伊倉村が成立。」とWikiにあり、ここでも「桜井村」は入っていません。
参照12のサイトに書かれた内容も、中世以降の記事なので、良く分かりません。
上記で考察した他にも、「火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連」と言った、
明らかに「古代九州」出身と思われる「姓(かばね)」も存在しているので、
今まで、想像してきた様に、「神武天皇(仮)」が「近畿地方」に東征したというのは、
間違っている可能性が高い様に思っています。
「葛城」、「春日」、「伊勢」と言った明らかに「近畿地方」と思われる地名も、
古代九州に存在していた可能性が高い事は、「東征」していなかった、
大きな根拠になるかも知れません。