故、神倭伊波禮毘古命は、其の地を幸(みゆき)廻るに従い、
熊野村に到る之(この)時、大熊髮の出入を卽(すなわち)失う
爾(なんじ)神倭伊波禮毘古命を倐(すみやか)に遠延を忽(ゆるがせ)と爲す
及び、御軍の皆、遠延而(に)伏す【遠延二字以音】
此の時、熊野之高倉下、此の人者(は:短語)一つの横刀という名を賷(もたらす)
天神御子到るに於いて、之(これ)伏地而(に)獻(たてまつる)之(この)時、
天神御子、卽(すなわち)長寢乎(お)起きて寤(さめて)詔(みことのり)す
故、其の横刀を受け取る之(この)時、其の熊野山之荒神、
皆自(より)切り仆(たおれる)と爲す
爾(なんじ)其の惑わし伏せる御軍、悉く之(これ)起きて寤(さめる)
故、天神御子に問う
其の横刀を獲る之(この)所由(ゆえん)、高倉下が答えて曰く
己の夢を云う
天照大神・高木神二柱神之命を以て、建御雷神を召して、
而(すなわち)詔(みことのり)す
葦原中國者(は:短語)、伊多玖佐夜藝帝阿理那理【此十一字以音】と我が御子等により、
不平(たいらくならず)良志【此二字以音】に坐す
其の葦原中國者(は:短語)、專(もっぱら)汝の所の言向之國故、
汝、建御雷神を降す可(べ)き
爾(なんじ)答えて曰く
僕(やつがれ、使用人)と雖(いえども)不降(くだらず)
專(もっぱら)其の國之横刀を平いて有る
是(この)刀を降ろす可(べ)き
此の刀の名は、佐士布都神と云う
亦の名を甕布都神と云う
亦の名を布都御魂と云う
此の刀者(は:短語)石上神宮に坐す也
此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)、高倉下之倉頂を穿(つらぬく)
其の墮(おちる)に自(より)入る
故、阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝が取り持ち、天神御子を獻(たてまつる)
故、夢の教えの如く而(に)、旦(あした)己の倉を見れ者(ば:短語)、
横刀が信じて有る
故、是(この)横刀を以て、獻(たてまつり)而(に)耳
熊野
「故神倭伊波禮毘古命 從其地廻幸 到熊野村之時 大熊髮出入卽失」の解読は、
「故、神倭伊波禮毘古命は、其の地を幸(みゆき)廻るに従い、
熊野村に到る之(この)時、大熊髮の出入を卽(すなわち)失う」になります。
この「熊野村」ですが、検索すると、「紀伊國熊野」しか出てきません。
しかし、そもそも、イネの圧痕が未だに
「紀元前500年」よりも古い物が発掘されていないので、
この「熊野村」が「紀伊國熊野」と考えるのは難しいと思います。
なにより、大元は「紀伊國の熊野」ではなく、「出雲の熊野」なので、
それが古代九州に存在していた時代に、
「熊野村」が誕生したのでは無いか?と考えています。
「此時 熊野之高倉下此者人名賷一横刀」の解読は、
「此の時、熊野之高倉下、此の人者(は:短語)一つの横刀という名を賷(もたらす)」
になります。
先程も書いたように、「熊野」は「古代九州」に存在したと思われます。
また、研削していると、九州には、まだ「遠賀郡岡垣町高倉」という地名があり、
もしかすると、「高倉下」となんらかの関係があるのかも知れません。
「横刀」とは何でしょうか?
検索すると、「AI による概要」では、下記の様に書いています。
「横刀」は、主に古墳時代から平安時代中期にかけて用いられた、
反りのない直刀の一種を指します。刃長が60cmを超えるものは「大刀」と呼ばれ、
それより短いものを「横刀」と呼ぶことがあります。
上記では「古墳時代から平安時代中期」と書いていますが、
この場面の時代は、紀元前660年頃なので、時期が合いません。
なので、「横刀 弥生時代 発掘 古代九州」で調べると、
弥生時代の「刀」は、弥生時代中期頃から増えている様です。
紀元前660年頃は、紀元前1000年頃と比べると「弥生時代中期」になると思うから、
「横刀(直刀)」が多くなっているのは、納得できます。
「故天神御子問(故、天神御子に問う)」と、
第六章の「天津日高之御子」や「天神之御子」と同じ様な言葉を使っています。
前段落においても、「到於天神御子之伏地而獻之時 天神御子卽寤起 詔 長寢乎」
とあり、同じく「天神御子」とあります。
なぜ、名を出さないのでしょうか?
逆を言えば、名を出す事で「神倭伊波禮毘古命」と
無関係なのが分かってしまうからではないか?と思っています。
「天神」というくらいなので「神」の地位にいるのが分かります。
とはいえ、「神」の地位にいる人物の子は多くいるのだから、
「天神御子」と書いたくらいで、どの人物を指すのかは分かりません。
この「天神御子」の場面は、ほとんどが、
「神倭伊波禮毘古命」とは無関係な事が多いように感じます。
なので、基本的に「神倭伊波禮毘古命」とは無関係な人物の話だと思います。
「獲其横刀之所由 高倉下答曰 己夢云」の解読は、
「其の横刀を獲る之(この)所由(ゆえん)、高倉下が答えて曰く」と「己の夢を云う」
になります。
この前文が「故、天神御子に問う」なのですが、
なぜ、高倉下が勝手に答えるのでしょうか?
これは確実に、別の文章が間に存在していたと思われます。
それと、なぜ、高倉下の夢を聞かなければ行けないのでしょう?
とはいえ、「己の夢」なので、「高倉下の夢」なのかの判断は出来ません。
「此十一字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。
「伊」:呉音・漢音:イ
「多」:呉音・漢音:タ
「玖」:呉音:ク、漢音:キュウ(キウ)
「佐」:呉音・漢音:サ
「夜」:呉音・漢音:ヤ
「藝」:呉音:ゲ、漢音:ゲイ
「帝」:呉音:タイ、漢音:テイ、唐音:テ
「阿」:呉音・漢音:ア
「理」:呉音・漢音:リ
「那」:呉音:ナ、漢音:ダ、唐音:ノ
上記により、呉音「いたくさやげたいありなりし」、
漢音「いたきゅうさやげいていありだりし」となりそうです。
「葦原中國者 伊多玖佐夜藝帝阿理那理【此十一字以音】
我御子等 不平坐良志【此二字以音】」の解読は、
「葦原中國者(は:短語)、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此【十一字以音】と
我が御子等により、不平(たいらくならず)良志【此二字以音】に坐す」になります。
この前文で「建御雷神を召して、而(すなわち)詔(みことのり)す」
と解読出来る文がありますが、この文で「建御雷神」とあるのに疑問があります。
「我御子」とありますが、「御」とある事から、高位の人間の子と解釈できます。
では、「建御雷神」は高位の人間でしょうか?
さすがに「御」を付ける程の人間では無いと思います。
そうなると、この「御子」で一番考えられるのが、
「天照大神・高木神二柱神之命を以て」と前文にあるので、
「天照大神」もしくは「高木神」の子の可能性が高そうです。
ただ、では、名を残していないのか?と疑問も出てきます。
ここまでは「我が御子」について考えましたが、
では、本題の「伊多玖佐夜藝帝阿理那理此」とは何か?について考えます。
とは言っても、情報はありません。
なので、漢字から推測していきます。
まず、「帝」ですが、これを「音読み」で読むべきでは無い様にも思います。
理由としては、「伊多玖佐夜藝帝阿理那理」の注記は「此十一字以音」とありますが。
「帝」を境として、前は「玖」というほとんど使わない字を使っているのに対し、
後では、簡単な漢字しか使っていません。
また、もし、「帝」が「皇帝」の意味であるならば、
「伊多玖佐夜藝帝」と「阿理那理」は分かれると思います。
こちらも、証拠が無いので正しいかは不明ですが、
今まで「帝」が入った長文自体見ていないので、可能性はある様に思えます。
普通に考えて、この様に「十一字」の長い名は、よほどでないと使わないでしょう。
そのため、「阿理那理」と短縮していた可能性があり、
だとするならば、「伊多玖佐夜藝帝」は別の意味を持っていると考えられます。
これらを考察出来る情報が無いのが残念です。
「其葦原中國者 專汝所言向之國 故汝建御雷神可降」の解読は、
「其の葦原中國者(は:短語)、專(もっぱら)汝の所の言向之國故、
汝、建御雷神を降す可(べ)き」となります。
「天照大神・高木神二柱神之命を以て、建御雷神を召して、
而(すなわち)詔(みことのり)す」もそうですけど、なぜ、建御雷神なのでしょうか?
もちろん、この「建御雷神」は、第四章の最後にある、
「故、建御雷神、返參上、復奏言向和平葦原中國之狀。」の「建御雷神」と異なり、
世代が五世代程の子孫だと思われます。
代々「建御雷神」という名を継承したのでしょう。
「汝の所の言向之國故」の意味は「建御雷神」の國になったという事でしょうか?
であるならば、「建御雷神」が「葦原中國」に行くのは当たり前ですが、
それを証明する記事がありません。
ちなみに、この次の「爾(なんじ)答えて曰く」と
「僕(やつがれ、使用人)と雖(いえども)不降(くだらず)」は、
そもそも、誰も答えてくれと言っていないのに、
「答えて曰く」とするのはおかしいですし、「僕(やつがれ、使用人)」がなぜ、
「降りたくない」と言ったのか?についての情報もありません。
なので、これらは、別の文から持って来て挿入したので、
話の繋がりが無くなっているのだと思います。
「專有平其國之横刀 可降是刀 此刀名 云佐士布都神 亦名云甕布都神
亦名云布都御魂 此刀者 坐石上神宮也」の解読は、
「專(もっぱら)其の國之横刀を平いて有る」と「是(この)刀を降ろす可(べ)き」と
「此の刀の名は、佐士布都神と云う」と「亦の名を甕布都神と云う」と
「亦の名を布都御魂と云う」と「此の刀者(は:短語)石上神宮に坐す也」になります。
ここに書かれている名は、人物名だと思われるので、
多分に、「亦の名」に書いている名は、鍛冶師で刀を作った人の名だと思います。
検索しても、「刀の名」だとする情報しか出てきません。
そもそも、もし、本当に「刀の名」であるのならば、
最後が「刀」で終わらないとおかしいです。
例えば、第二章の「都牟刈之大刀」や「草那藝之大刀」の様に、
「〇〇刀」とあれば、「刀の名」と認識出来ますが、
今回の様に「佐士布都神」と「刀」が付与されていないのは、
明らかに、「人名」であり、「刀鍛冶」の人の名であると考えられます。
また、「佐士布都神」、「甕布都神」、「布都御魂」と「布都」が共通項になっています。
そこで、「布都」が古代九州に存在していなかったのか?を検索したら、
「旧筑前国怡土郡」に「布都」があったと書いてあったので調べたら、
確証がありませんでした。
ただ、ここまでの考察で「九州」→「関西」に移動した、決定的な証拠がないので、
もしかすると、この「布都」一族も「古代九州」で存在していた可能性がありそうです。
「降此刀狀者 穿高倉下之倉頂」の解読は、
「此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)、高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」
になります。
「此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)」と「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」は、
釣り合いが取れているとは思えません。
最初の文は「狀(かたち)」の事を書いているのに、
「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」では話が通じません。
「狀」は「ようす」、「かたち」、「かきつけ」とありますが、
仮に「刀の様子は〜」でも同じで、
「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」では話が繋がりません。
なので、別の文をつなぎ合わせたと考えられます。
後の文の「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」は「高倉下」が所有する「倉庫」の頂きに、
何かが落ちて来て、穴を開けたのだろうと想像できます。
また、最初の「此の降った刀」の「降った」ですが、
これは、「是(この)刀を降ろす可(べ)き」から来ていると思われます。
ですが、すぐに繋げずに、間に刀の名についての文を挿入したのは疑問になります。
もしかすると、実際には「是(この)刀を降ろす可(べ)き」と、
今回の「此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)」は無関係なのかも知れません。
「自阿下五字以音」と注記があり、「音読み」指定となります。
「阿」:呉音・漢音:ア
「佐」:呉音・漢音:サ
「米」:呉音:マイ、漢音:ベイ
「余」:呉音・漢音:ヨ
「玖」:呉音:ク、漢音:キュウ(キウ)
上記により、呉音「あさまいよく」、漢音「あさべいよきゅう」となりそうです。
「故阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝取持 獻天神御子」の解読は、
「故、阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝が取り持ち、天神御子を獻(たてまつる)」
になります。
この「阿佐米余玖」ですが、現時点では「人物」なのかは不明です。
ですが、「阿佐米余玖」が、誰かを取り持って「天神御子を獻(たてまつる)」
という行動に持っていったのならば、「人名」と解釈も出来ます。
ちなみに、この後の文は、誰を指しているのかなどの、
重要な情報が記載されていません。