最終更新日 2025/10/06

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 第七章 神武天皇から開化天皇まで

故神倭伊波禮毘古命 從其地廻幸 到熊野村之時 大熊髮出入卽失 爾神倭伊波禮毘古命
倐忽爲遠延 及御軍皆遠延而伏【遠延二字以音】此時 熊野之高倉下此者人名賷一横刀
到於天神御子之伏地而獻之時 天神御子卽寤起 詔 長寢乎 故 受取其横刀之時
其熊野山之荒神 自皆爲切仆 爾其惑伏御軍 悉寤起之

故天神御子問 獲其横刀之所由 高倉下答曰 己夢云 天照大神・高木神二柱神之命以
召建御雷神而詔 葦原中國者 伊多玖佐夜藝帝阿理那理此【十一字以音】 我御子等
不平坐良志【此二字以音】其葦原中國者 專汝所言向之國 故汝建御雷神可降 爾答曰 僕雖不降
專有平其國之横刀 可降是刀 此刀名 云佐士布都神 亦名云甕布都神 亦名云布都御魂 此刀者
坐石上神宮也 降此刀狀者 穿高倉下之倉頂 自其墮入 故阿佐米余玖【自阿下五字以音】
汝取持 獻天神御子 故如夢教而 旦見己倉者 信有横刀 故以是横刀而獻耳
解読

故、神倭伊波禮毘古命は、其の地を幸(みゆき)廻るに従い、
熊野村に到る之(この)時、大熊髮の出入を卽(すなわち)失う

爾(なんじ)神倭伊波禮毘古命を倐(すみやか)に遠延を忽(ゆるがせ)と爲す

及び、御軍の皆、遠延而(に)伏す【遠延二字以音】

此の時、熊野之高倉下、此の人者(は:短語)一つの横刀という名を賷(もたらす)

天神御子到るに於いて、之(これ)伏地而(に)獻(たてまつる)之(この)時、
天神御子、卽(すなわち)長寢乎(お)起きて寤(さめて)詔(みことのり)す

故、其の横刀を受け取る之(この)時、其の熊野山之荒神、
皆自(より)切り仆(たおれる)と爲す

爾(なんじ)其の惑わし伏せる御軍、悉く之(これ)起きて寤(さめる)


故、天神御子に問う

其の横刀を獲る之(この)所由(ゆえん)、高倉下が答えて曰く

己の夢を云う

天照大神・高木神二柱神之命を以て、建御雷神を召して、
而(すなわち)詔(みことのり)す

葦原中國者(は:短語)、伊多玖佐夜藝帝阿理那理【此十一字以音】と我が御子等により、
不平(たいらくならず)良志【此二字以音】に坐す

其の葦原中國者(は:短語)、專(もっぱら)汝の所の言向之國故、
汝、建御雷神を降す可(べ)き

爾(なんじ)答えて曰く

僕(やつがれ、使用人)と雖(いえども)不降(くだらず)

專(もっぱら)其の國之横刀を平いて有る

是(この)刀を降ろす可(べ)き

此の刀の名は、佐士布都神と云う

亦の名を甕布都神と云う

亦の名を布都御魂と云う

此の刀者(は:短語)石上神宮に坐す也

此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)、高倉下之倉頂を穿(つらぬく)

其の墮(おちる)に自(より)入る

故、阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝が取り持ち、天神御子を獻(たてまつる)

故、夢の教えの如く而(に)、旦(あした)己の倉を見れ者(ば:短語)、
横刀が信じて有る

故、是(この)横刀を以て、獻(たてまつり)而(に)耳

解説

03

熊野


熊野村

「故神倭伊波禮毘古命 從其地廻幸 到熊野村之時 大熊髮出入卽失」の解読は、
「故、神倭伊波禮毘古命は、其の地を幸(みゆき)廻るに従い、
熊野村に到る之(この)時、大熊髮の出入を卽(すなわち)失う」になります。

この「熊野村」ですが、検索すると、「紀伊國熊野」しか出てきません。

しかし、そもそも、イネの圧痕が未だに
「紀元前500年」よりも古い物が発掘されていないので、
この「熊野村」が「紀伊國熊野」と考えるのは難しいと思います。

なにより、大元は「紀伊國の熊野」ではなく、「出雲の熊野」なので、
それが古代九州に存在していた時代に、
「熊野村」が誕生したのでは無いか?と考えています。

熊野之高倉下

「此時 熊野之高倉下此者人名賷一横刀」の解読は、
「此の時、熊野之高倉下、此の人者(は:短語)一つの横刀という名を賷(もたらす)」
になります。

先程も書いたように、「熊野」は「古代九州」に存在したと思われます。

また、研削していると、九州には、まだ「遠賀郡岡垣町高倉」という地名があり、
もしかすると、「高倉下」となんらかの関係があるのかも知れません。

「横刀」とは何でしょうか?

検索すると、「AI による概要」では、下記の様に書いています。

「横刀」は、主に古墳時代から平安時代中期にかけて用いられた、
反りのない直刀の一種を指します。

刃長が60cmを超えるものは「大刀」と呼ばれ、
それより短いものを「横刀」と呼ぶことがあります。

上記では「古墳時代から平安時代中期」と書いていますが、
この場面の時代は、紀元前660年頃なので、時期が合いません。

なので、「横刀 弥生時代 発掘 古代九州」で調べると、
弥生時代の「刀」は、弥生時代中期頃から増えている様です。

紀元前660年頃は、紀元前1000年頃と比べると「弥生時代中期」になると思うから、
「横刀(直刀)」が多くなっているのは、納得できます。

天神御子

「故天神御子問(故、天神御子に問う)」と、
第六章の「天津日高之御子」や「天神之御子」と同じ様な言葉を使っています。

前段落においても、「到於天神御子之伏地而獻之時 天神御子卽寤起 詔 長寢乎」
とあり、同じく「天神御子」とあります。

なぜ、名を出さないのでしょうか?

逆を言えば、名を出す事で「神倭伊波禮毘古命」と
無関係なのが分かってしまうからではないか?と思っています。

「天神」というくらいなので「神」の地位にいるのが分かります。

とはいえ、「神」の地位にいる人物の子は多くいるのだから、
「天神御子」と書いたくらいで、どの人物を指すのかは分かりません。

この「天神御子」の場面は、ほとんどが、
「神倭伊波禮毘古命」とは無関係な事が多いように感じます。

なので、基本的に「神倭伊波禮毘古命」とは無関係な人物の話だと思います。

己の夢

「獲其横刀之所由 高倉下答曰 己夢云」の解読は、
「其の横刀を獲る之(この)所由(ゆえん)、高倉下が答えて曰く」と「己の夢を云う」
になります。

この前文が「故、天神御子に問う」なのですが、
なぜ、高倉下が勝手に答えるのでしょうか?

これは確実に、別の文章が間に存在していたと思われます。

それと、なぜ、高倉下の夢を聞かなければ行けないのでしょう?

とはいえ、「己の夢」なので、「高倉下の夢」なのかの判断は出来ません。

伊多玖佐夜藝帝阿理那理

「此十一字以音」と注記があるので、「音読み」指定となります。

「伊」:呉音・漢音:イ

「多」:呉音・漢音:タ

「玖」:呉音:ク、漢音:キュウ(キウ)

「佐」:呉音・漢音:サ

「夜」:呉音・漢音:ヤ

「藝」:呉音:ゲ、漢音:ゲイ

「帝」:呉音:タイ、漢音:テイ、唐音:テ

「阿」:呉音・漢音:ア

「理」:呉音・漢音:リ

「那」:呉音:ナ、漢音:ダ、唐音:ノ

上記により、呉音「いたくさやげたいありなりし」、
漢音「いたきゅうさやげいていありだりし」となりそうです。

意味

「葦原中國者 伊多玖佐夜藝帝阿理那理【此十一字以音】
我御子等 不平坐良志【此二字以音】」の解読は、
「葦原中國者(は:短語)、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此【十一字以音】と
我が御子等により、不平(たいらくならず)良志【此二字以音】に坐す」になります。

御子

この前文で「建御雷神を召して、而(すなわち)詔(みことのり)す」
と解読出来る文がありますが、この文で「建御雷神」とあるのに疑問があります。

「我御子」とありますが、「御」とある事から、高位の人間の子と解釈できます。

では、「建御雷神」は高位の人間でしょうか?

さすがに「御」を付ける程の人間では無いと思います。

そうなると、この「御子」で一番考えられるのが、
「天照大神・高木神二柱神之命を以て」と前文にあるので、
「天照大神」もしくは「高木神」の子の可能性が高そうです。

ただ、では、名を残していないのか?と疑問も出てきます。

伊多玖佐夜藝帝阿理那理

ここまでは「我が御子」について考えましたが、
では、本題の「伊多玖佐夜藝帝阿理那理此」とは何か?について考えます。

とは言っても、情報はありません。

なので、漢字から推測していきます。

まず、「帝」ですが、これを「音読み」で読むべきでは無い様にも思います。

理由としては、「伊多玖佐夜藝帝阿理那理」の注記は「此十一字以音」とありますが。
「帝」を境として、前は「玖」というほとんど使わない字を使っているのに対し、
後では、簡単な漢字しか使っていません。

また、もし、「帝」が「皇帝」の意味であるならば、
「伊多玖佐夜藝帝」と「阿理那理」は分かれると思います。

こちらも、証拠が無いので正しいかは不明ですが、
今まで「帝」が入った長文自体見ていないので、可能性はある様に思えます。

普通に考えて、この様に「十一字」の長い名は、よほどでないと使わないでしょう。

そのため、「阿理那理」と短縮していた可能性があり、
だとするならば、「伊多玖佐夜藝帝」は別の意味を持っていると考えられます。

これらを考察出来る情報が無いのが残念です。

葦原中國の話

「其葦原中國者 專汝所言向之國 故汝建御雷神可降」の解読は、
「其の葦原中國者(は:短語)、專(もっぱら)汝の所の言向之國故、
汝、建御雷神を降す可(べ)き」となります。

「天照大神・高木神二柱神之命を以て、建御雷神を召して、
而(すなわち)詔(みことのり)す」もそうですけど、なぜ、建御雷神なのでしょうか?

もちろん、この「建御雷神」は、第四章の最後にある、
「故、建御雷神、返參上、復奏言向和平葦原中國之狀。」の「建御雷神」と異なり、
世代が五世代程の子孫だと思われます。

代々「建御雷神」という名を継承したのでしょう。

「汝の所の言向之國故」の意味は「建御雷神」の國になったという事でしょうか?

であるならば、「建御雷神」が「葦原中國」に行くのは当たり前ですが、
それを証明する記事がありません。

ちなみに、この次の「爾(なんじ)答えて曰く」と
「僕(やつがれ、使用人)と雖(いえども)不降(くだらず)」は、
そもそも、誰も答えてくれと言っていないのに、
「答えて曰く」とするのはおかしいですし、「僕(やつがれ、使用人)」がなぜ、
「降りたくない」と言ったのか?についての情報もありません。

なので、これらは、別の文から持って来て挿入したので、
話の繋がりが無くなっているのだと思います。

刀の名

「專有平其國之横刀 可降是刀 此刀名 云佐士布都神 亦名云甕布都神
亦名云布都御魂 此刀者 坐石上神宮也」の解読は、
「專(もっぱら)其の國之横刀を平いて有る」と「是(この)刀を降ろす可(べ)き」と
「此の刀の名は、佐士布都神と云う」と「亦の名を甕布都神と云う」と
「亦の名を布都御魂と云う」と「此の刀者(は:短語)石上神宮に坐す也」になります。

ここに書かれている名は、人物名だと思われるので、
多分に、「亦の名」に書いている名は、鍛冶師で刀を作った人の名だと思います。

検索しても、「刀の名」だとする情報しか出てきません。

そもそも、もし、本当に「刀の名」であるのならば、
最後が「刀」で終わらないとおかしいです。

例えば、第二章の「都牟刈之大刀」や「草那藝之大刀」の様に、
「〇〇刀」とあれば、「刀の名」と認識出来ますが、
今回の様に「佐士布都神」と「刀」が付与されていないのは、
明らかに、「人名」であり、「刀鍛冶」の人の名であると考えられます。

また、「佐士布都神」、「甕布都神」、「布都御魂」と「布都」が共通項になっています。

そこで、「布都」が古代九州に存在していなかったのか?を検索したら、
「旧筑前国怡土郡」に「布都」があったと書いてあったので調べたら、
確証がありませんでした。

ただ、ここまでの考察で「九州」→「関西」に移動した、決定的な証拠がないので、
もしかすると、この「布都」一族も「古代九州」で存在していた可能性がありそうです。

高倉下之倉頂

「降此刀狀者 穿高倉下之倉頂」の解読は、
「此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)、高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」
になります。

「此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)」と「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」は、
釣り合いが取れているとは思えません。

最初の文は「狀(かたち)」の事を書いているのに、
「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」では話が通じません。

「狀」は「ようす」、「かたち」、「かきつけ」とありますが、
仮に「刀の様子は〜」でも同じで、
「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」では話が繋がりません。

なので、別の文をつなぎ合わせたと考えられます。

後の文の「高倉下之倉頂を穿(つらぬく)」は「高倉下」が所有する「倉庫」の頂きに、
何かが落ちて来て、穴を開けたのだろうと想像できます。

また、最初の「此の降った刀」の「降った」ですが、
これは、「是(この)刀を降ろす可(べ)き」から来ていると思われます。

ですが、すぐに繋げずに、間に刀の名についての文を挿入したのは疑問になります。

もしかすると、実際には「是(この)刀を降ろす可(べ)き」と、
今回の「此の降った刀の狀(かたち)者(は:短語)」は無関係なのかも知れません。

阿佐米余玖

「自阿下五字以音」と注記があり、「音読み」指定となります。

「阿」:呉音・漢音:ア

「佐」:呉音・漢音:サ

「米」:呉音:マイ、漢音:ベイ

「余」:呉音・漢音:ヨ

「玖」:呉音:ク、漢音:キュウ(キウ)

上記により、呉音「あさまいよく」、漢音「あさべいよきゅう」となりそうです。

意味

「故阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝取持 獻天神御子」の解読は、
「故、阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝が取り持ち、天神御子を獻(たてまつる)」
になります。

この「阿佐米余玖」ですが、現時点では「人物」なのかは不明です。

ですが、「阿佐米余玖」が、誰かを取り持って「天神御子を獻(たてまつる)」
という行動に持っていったのならば、「人名」と解釈も出来ます。

ちなみに、この後の文は、誰を指しているのかなどの、
重要な情報が記載されていません。

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